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小さな棺に横たわる母。 湯灌で清められ。 死化粧を施され。 それでも尚隠す事が出来ぬ。 額に刻まれた深い傷跡。 思い出せば胸が痛む幼少期。 友は子供故の残忍さを振りかざし。 容赦無く言葉の刃を投げつける。 俺の心を抉っているとも意識せず。 幼い心では耐えられず。 いつしか俺は母の傷を嫌っていた。 だが記憶には無いものの。 傷は俺のせいなのだと……。 そんな罪悪感に苛まれ。 何も聞けぬまま月日は流れていった。 数十年の時が過ぎ。 酒の力を借り。 ようやく聞けた傷の訳。 それは俺が二歳の夏。 未曽有の嵐が荒れ狂った夏の夜の事。 唸り声を上げる風。 大地を打ち付ける雨。 濁流と化す川。 水に蹂躙される街。 母は俺の命を守る事だけを考え。 俺を庇う様に抱きしめながら逃げ惑った。 大勢の人間が押し合いながら。 我先にと避難先へと助けを請う。 両手の塞がった母は人混みに押され。 倒され。 抱き締められていた俺は。 弾みで川に流されてしまう。 周りの者が気付く間も無く。 伯父や叔母が声を上げる間も無く。 躊躇無く濁流へと身を投じた母。 瞬く間に消え去る二人の姿。 父は母の名を叫び。 俺の名を泣き叫ぶ だが幾ら叫ぼうとも返事等あろう筈もなく。 ただ悲痛な嘆きをかき消すように。 轟音だけが鳴り響く。 半時程が経過した。 十町程下流の橋。 欄干に絡まる瓦礫と共に見つかる母。 その腕の中には泣き喚く俺の姿があったのだと言う。 濁流に揉まれ。 瓦礫に殴打され。 意識を失い。 それでも俺を抱き締め守ってくれた母。 額の傷はその時に刻まれた……。 始めて知る事実に俺は困惑した。 何故躊躇なく飛び込んだのか。 何故力のある者に助けを求めなかったのか。 一体何を考えていたのか。 「何にも考えてへんかったわ……」 笑顔で答えるその言葉が。 更に俺の感情を昂らせた。 流れの中はどんな状況か分からぬのに。 どこへ行き着くのかも分からぬのに。 ましてや助かる見込み等皆無かも知れぬのに。 俺だけでなく自分が。 母までもが命を落としていたかも知れぬのに。 捲し立てる俺の頭に手を置く母。 幼い頃にそうしたように。 優しく俺の頭を撫でながら。 ゆっくりとゆっくりと答える母。 その言葉はとても単純で。 とても軽率な考えで。 でも……。 この世の何よりも暖かく。 この世の誰よりも優しく。 俺の心に一生消えぬ程に染み渡った。 「どうなってんのか、わかれへんけど……。  ……。  ……。  どこに行くんかも、わかれへんけど……。  ……。  ……。  けどな……。  ……。  ……。  あんたとおんなじとこに入って行ったら……。  あんたとおんなじとこに行けるやろ……」 何故俺は真実を知ろうとしなかったのだ。 幼い頃に知っていれば。 友の揶揄等気にも留めなかったのに。 傷を嫌い。 母に辛い想いをさせずに済んだのに。 素直にありがとうと。 俺の母で居てくれてありがとうと伝えられたのに。 友に言えなかった言葉が頭を埋め尽くす。 母の傷は俺の誇りだ! 母の傷は誰にも負けぬ俺への愛だ! 母の傷を揶揄する奴は誰であろうと俺が許さない! 俺は。 俺を生んでくれた母を愛している! 永遠の別れの時が訪れ。 厚い鉄の扉の中へと運ばれて行く母。 静かに静かに閉じられる扉。 未来の事など分からぬが。 一つだけ。 たった一つだけ。 あなたに伝えられる確実な事がある。 いつの日か俺もあなたと同じ扉の中に運ばれ。 そして。 あなたと同じ所へと向かいます。 だから……。 だから少しだけ待っていて下さい……。
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