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「ちょっと。ホッシー、まだヒナ先生と付き合ってないの?」 小学生が使うには少々狭い廃保育園の体育館。ドッジボールに興じる、子供たちの足音が起こす風は生温い。  その足音に紛れ、サホが俺の耳元に寄ってあの頭に響く声を発する。当然、彼女も先程まで試合に参加していたはずなのに、壁に寄り掛かるように立っている俺の隣にいつの間にかいる。 「……んだよ。お前、何サボってんの?」 「ちがーうぅ。サホはただ、外野に出てきただけだもん」 「……それ、飽きたからわざと当たって早々に出てきたんだろ。やっぱサボってんじゃねえか。つーかお前敵チームだろ」 「それを言うなら、最初に外野に出る役買って出たくせに、内野に戻る気すらないホッシーも、サボりじゃん」 「俺は、お前らみたいな元気なガキじゃなくて、疲れたアラサーなの。お前らに合わせて全力なんか出したら死ぬ。こんくらい許せ、大人は、上手く手ェ抜く能力も求められんの。お前はガキなんだから、ホラ、さっさと試合に戻った、戻った」 「ちょっと、話逸らして誤魔化さないでよ。サホがあそこまでしてあげたのに、ホッシーはどうしてそうヘタレなの!」  そんなこと、言われてもなあ。全て勘違いだと知って俺が悔いるやら混乱するやらの状態だと分かっているはずなのに、サホはまだ、手柄は自分にあると思っている。勝手なものだ。もう誰も彼も。俺の周りには、勝手な人間しか現れないことになっているのだろうか。  俺たちの間に、ボールがコロコロと間抜けな速度で転がってくる。ラインを僅かに越え、俺の側の外野で止まったボールを、サホはちょい、と引き寄せて出鱈目に内野に投げた。偶々当たったらしい男子が「ホッシーマジ使えねえ!」とブチ切れながら外野に走り出ていく。サホは、5秒前まで俺と話していたことなど忘れたかのように、こちらに一瞥もくれずに自陣に戻っていった。  勝手だ。みんな、みんな。    とは言うものの、俺自身、自分の行動が理解できずにいる。  あれから、週末とか仕事の後とかに、何度かヒナ先生と会っている。ヒナ先生に呼び出されるまま断りもしないで、アラサーの男二人、飯を食いに行く。  自分でも分からない。相手が男だと分かったなら、もう用はないと思ったのに。そればかりかヒナ先生は、自分の言動は俺への好意からのものだと――つまり俺のことが好きだと――宣言しているのだ。  そんな男からどうして俺は、逃げないでいるのだろう。 「あの、ホッシー先生」 その人の声はいつも穏やかなのに、どうしてこうも、いっぱいに張った水面を揺らすような、並々ならない緊張感に包まれているのだろう。 「先生、今、楽しいですか」 「え……」 「僕が男だって知ったのに、それでもホッシー先生は来てくれるじゃないですか。なんか……先生が僕に、無理に会ってくれてるんじゃないかって」 なんであなたが、今更、それを聞くんだ。そう思うのに。 「無理なんかしてないですよ」 考えるより先に、口を突いて出た。 「や、あの、これはそのっ……!」 「ホッシー先生。それ僕、少しは脈アリだって、思ってもいいですか?」 「は? 脈⁉ そんなもの、あるわけないでしょう! 俺はあの日、清廉で可愛い女の子とデートできるって思ったから……ただ、ただそれだけですよ⁉」 「もう。先生、言ってること滅茶苦茶ですよ?」 その通りだ。俺が今またこの人の目の前に座っている理由の説明には、全くなっていない。 「……久し振りだったんです」 「え?」 「花が綺麗だって……美しいって思える感情。最後にそんなこと思ったのはいつだっただろうってくらい、俺は、気付いたらこんな、つまんなくて疲れた大人になってたんですよ。思い出させてくれたのはあの窓で咲いてる、ひまわりたちです。ヒナ先生のいる窓で。何言ってっか分かんねえと思いますけど、それは間違いないんです」 本当に何を言っているか分からない。話しながらも、自分の声がどんどんと細くなり、俯いた顔がサーっと紅潮していくのが分かる。 「今は、それが聞けただけで十分です」 俯いたまま視界の上端だけで盗み見る、その男の表情。  ああ。またその、首を傾げた困り顔の微笑み。 「……でも正直言うと、少し不安なんです」 応える気もないのにずるずるとこんな生活を続けて、残酷にももしこの人を苦しめているのなら、それは本意ではないとは、少なくとも思う。 「不安って……何がですか」 「ホッシー先生、やっぱりモテるでしょう?」 「え。ヒナ先生、そんなこと心配してたんですかぁ? 俺はガキどもからも残念系って評されてる男ですよ?」 「本来モテるはずのポテンシャルがあるのに残念系、ですか……どちらかと言うと僕には、先生には何か、恋をしない理由があるように見えるんです」 「……」 テーブルに置いたままのグラスを無意識に握り締めていた手の甲の上に、水滴が流れ落ちてくる。 「……理由ってほどのもんじゃないすよ」 「……ええ」 「自意識過剰とか、嫌味とか思われるかもしれないけど、今までの人生ずっと、見た目だけだったら、周りから割と注目を集めて生きてきました。何も考えてなくて、人任せな生き方をしてきた自分が悪いんですけど、付き合ってって言われるまま女の子と付き合って、その度に、思ってたのと違うとか、つまんないとか言われて愛想尽かされたり、まあ……ダマされたみたいなこともあったし……前の会社辞めたのもさ、そういう理由もあるんすよね。良くも悪くも、俺の評判広まっちゃって、なんか、居づらくなったから辞めちゃいました。だから何か思想信念があって恋愛を避けてたわけでもなくて、今はただちょっと、もう疲れた、どうでもいーって感じで……でも」 指の付け根に溜まる水滴が、火照った肌にちょうどいい。 「ひまわりの花を見つけた時、あの花の持ち主はどんな人だろうって窓越しに想像した時、初めて自分から、誰かに近付きたいと、そういう気持ちに突き動かされた……」 俯いたままの頭の上に、ふふ、とくぐもったような笑い声が降る。  ……いや、俺、何口走ってんの⁉ 「ってホラね⁉ 理由というほどのものじゃないでしょう? 俺はつまんねえ男だから、こんな大したことない話しかありません」 「つまらなくなんてないですよ」 「っ……!」 気化しようとする雫と、温もりのないガラスで冷えた手の甲に、生温かい重みがのしかかる。水滴を拭うように俺の手の甲の上を滑るヒナ先生の指先に、顔を上げようとした動きは封じられた。そんなに飲んだつもりもないのに、一気に意識が手元に集中して、先生の指の動きから目を離せなくなる。 (やっば、ヒナ先生の、手……なんか、すべすべ……あ、さすがピアノの先生って感じ? ……いやいやいや、そ、そうじゃなくてッ!) 「若い子たちは、単に刺激が欲しいだけですよ。僕はホッシー先生よりは少しだけ大人ですから。平穏な日々をくれる誠実な方は、僕には十分魅力的に映ります。ダマされやすいのだって、根が優しくて真面目だからじゃないですか?」 「……俺のこと、買い被りすぎですよ。俺は見ての通り、ガサツで気の利いたことも言えない、残念系で……」 「ホッシー先生が、自分に自信がなさすぎるだけですよ。僕だって最初は、あなたの見た目に惹かれて近付きたいと思ったけど、でも先生が外見だけの人間だなんて、ちっとも思ってないです。こうして何回も会って話す度に、また会いたい、もっとこの人のことを知りたいって……そう思わされている時点で、つまらない男だなんて、そんなわけがないです」 そんなの、ヒナ先生、俺だって――  先生が今までどんなところで生きてきて、どんな景色を見てきて、何に喜んで――傷付いて――何を大切だと思うようになったのか。そんな話を、いつか、ヒナ先生の口から聞いてみたい。 (ホント俺、なんでこんなこと、思うようになったんだろう。マジで自分が理解不能) でもこんなこと、言葉にしたら目の前の男を調子に乗らせるだけだから。  俺はもぞもぞと手を動かして、ヒナ先生の指から逃れた。    
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