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「そりゃ俺は、ヒナ先生みたいな人から見たらなんかガラ悪そうな奴、に映るかもしれねえけど、あれから俺、なんでウエストサイドストーリーが好きなのかなって考えてみたんですよ」 「……どうしてですか」 「ウエストサイドストーリーが、ロミオとジュリエットの翻案だってことは知ってますよね?」 ヒナ先生は黙って頷く。 「マリアが死なないからだと思います。ジュリエットは死ぬけど、マリアは死なないから」 先生の瞳に流れ込んでいた光が、僅かに揺れた気がした。 「……って、すみません、また俺、何言ってっか訳分かんねえことを」 俺は慌てて顔の前で手を振る。そんなことをしたところで、自分で作り出した妙な空気を消し去れるわけでもないのに。  子供が裸足になって駆け回る芝生に落ちるのは、窓ガラス越しの日光。ショッピングモールの中庭というシチュエーションの中にいるのは、幼子のいる家族連れでなければ、中央の人工池を囲んで座るカップルたちだった。  なんで楽譜を買いに来るだけで、俺はわざわざこんな場所に連れられて来ているのだろう。 「……でも僕はなんとなく分かりますよ、ホッシー先生の言わんとしていること」 人工池に流れ込む小さな滝が、七色に輝く飛沫を上げた。それがヒナ先生のほっそりとした首筋に飛び、そして滑り落ちていくのを俺は見ていた。 「わ、すご」 ショッピングモール内、楽器店のフロアに足を踏み入れた瞬間、思わず小さな声が出た。 店の中央に固められたピアノの黒と、その両脇にずらりと並ぶ、トランペットやサックスのガラスケース越しの金色。楽器屋なんて勿論入ったことのない俺は、目に飛び込んできた光に気圧され、初めて祭りを目にした子供のようにキョロキョロと視線を泳がせた。  迷いもなく店の奥に進んでいくヒナ先生に数歩の遅れを取り、俺は慌ててその後ろについていく。 「こんにちは~」 俺の横を甲高い声が掠めて、反射的に顔をそちらに向ける。俺の動体視力が追いつく頃には既にこの店のロゴ入りのリュックを背負った後ろ姿になっていたその少年は、店舗と併設された音楽教室の生徒らしい。並んだスタジオのドアのうちの一つが開き、講師と思しき女性が駆け込んでくる少年の身体を受け止めて迎え入れている。  前を歩くヒナ先生の表情を、見ることはできなかった。 「あ、この辺りじゃないですか」 当のヒナ先生の声で、意識を引き戻された。先生の視線の先を辿ると、壁際の棚に「ピアノ譜」と表示された区画がある。 「『憧れの名曲集』、『映画音楽30選』……うーん、連弾の楽譜だからぁ……」 いつの間にかヒナ先生は、棚の前にしゃがみ込んでみっちりと詰め込まれた楽譜の背を引き出したり、ぱらぱらと中身を覗いたりし出していた。楽譜の選び方なんて勿論よく知らない俺は、1歩後ろに膝に手をついて屈み、焦点の合い切らない眼でその様子を眺めた。 「あった。ありました!」 瞬間、不明瞭で色を失くした視界が、急に色彩を取り戻した。  弾む声も、一冊の楽譜を手にして俺を見上げる顔に差す僅かな赤みも。その人が歳上の――ひまわりの季節に30の誕生日を迎えた男だということを俺に忘れさせた。 「いや~今日店舗で買えるなんてラッキーでした」 ショッピングモールを出て通りを歩いていると、楽譜の入った袋を胸に抱いたヒナ先生がたっぷり吸い込んだ空気を吐き出すように言った。  ――え? 「……ヒナ先生すみません、あんまり買える当てもなかったのに、今日店に行ったんですか?」 「……今時、楽譜はネットで買う方が楽だし確実ですよ。それに、楽器屋さんなんて他にもいくらでもあるんだから、別に普通の路面店に行けばよかったんです、わざわざあんな、ショッピングモールに入ってる店舗にしなくても……すみません、ホッシー先生には否定されても、僕がどうしても、デートの気分を演出したかったんだと思います」  ぱちん。  俺の頭の中で、何かがちぎれる音が響いた。  俺は、どうしたらいい――?  ヒナ先生の足が止まる。それに気付いた俺も立ち止まり、そして振り返ってヒナ先生の正面に向き直る。 「すみません、ホッシー先生。また教えるから、今度は連弾をやろうなんて、僕はただ、ホッシー先生を引き留めておく理由が、欲しかったんです」 楽譜を抱える腕にぎゅーっと力を込めて、ヒナ先生が俯く。ふたりの横を、風が通り抜けていく。それはもう秋の向こう側の風だと言って差し支えなかった。 「……馬鹿だなあ」 俺の言葉の前半部分は風が攫っていって、よく聞き取れなかったのだろうか。俯いた顔が再び上げられて、視線は真っ直ぐに、ぶつかり合う。 「理由なんかなくたって、俺はあんたのそばにいますよ」 「え……」 「俺と付き合ってください――日向さん」 曇りのないガラスみたいなその人の両の瞳から、それもまたどこまでも透明な二筋の雫が落ちていった。 「もう、どうしてあんたが泣くんすか」 殆ど無意識のうちに、俺より少し背の低い、俺より少し歳上の男の頭に広げた掌を載せていた。さらさらと指に触れる細い髪も、その下の肌の体温の高さも、それが30も過ぎた男のものだなんて、そんなことどうという問題でもないという気にさせる。 「アッ……! すみません、職業病かな、ヒナ先生のこと可愛いって思ったら、ついこんな……」 「……ふふふ」 まだ涙が引く様子はないが、俺の手の下でヒナ先生が肩を揺らして笑う。泣き笑い。それにつられるようにほんの少しだけ揺れる髪がくすぐったい。 「ホッシー先生……青児さんが、流されやすい性格で助かりました」 「……ああそうでうすよ。がっつり、流されました」  涙の跡を乾かす風は火照った頬を冷ますのに丁度いい冷たさ。もう一度恋の歌を、今度は二人で作り上げるまでに、また季節を越えていくんだろう。急に上達なんてしない。ゆっくりでいい。  俺たちはたぶん弱い人間どうしだが、分かりやすい結末なんて求めない。生きることを選んだヒロインを描く、映画のように。  これからいろんなことが待っているだろう。まずは、サホの尋問だろうが。福ピー先生やミキ先生に知られるのも面倒臭い。でも、大騒ぎする声で溢れる鷹良台放課後児童クラブの光景を想像したら、なぜか少し笑えた。  今は流されていても。いつかこの気持ちが本物だって、迷いなく言える日まで。
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