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2
殺伐とした毎日の中で、窓辺のひまわりは確実に俺の心の支えだった。そこにはまだ見ぬヒナ先生への憧れが紐づけられており、そのために俺がそわそわとどこか浮かれていたのは否めない。
それというのも、あの場所がピアノ教室だと発覚したあの日。サホは3~40分ののちに学童保育に戻って来た。
「ただいまー……ああ、いたいたホッシー」
「? 何だよ」
「うふ。サホちゃんとねえ、ヒナ先生にホッシーの話してきたよ」
「え!? 勝手なことを……」
「いい~じゃ~ん。あのね、今日から顔だけはいい先生が入ったんだーって言ったら、ヒナ先生会ってみたいって言ってたよ」
「! まじ」
「まじまじ。よかったじゃん」
背を向けかけるサホを、慌てて引き留める。
「お、いおいちょっと待て」
「もー何」
「その……どんな人なんだ、ヒナ先生っていうのは」
「何? ヒナ先生のことナンパする気? ホッシーのくせに生意気」
「ちっ、げーよバカ」
否定してみるものの、思いの外の好感触に、正直心臓が小躍りし出していた。そうか、ヒナ先生も俺のことそんなふうに……
いやお互い顔も知らねえんだけどさ。
「うーん……ヒナ先生はねえ、すっごく優しいしぃ、それにとっても美人だよ」
ホレ……ホレ見たことか! やっぱりどうやら、ヒナ先生は俺の想像通りの人らしいじゃないか!
いやいや、静まれ、静まれ俺の心臓ッ……!
「……何這いつくばって胸押さえてんの。ウザい。キモい」
神様、俺は再び、女児に蔑みの眼で見下ろされています。でもそんなことは、もうどうでもいいのです。今はただ、あの人に――
夏の長い陽がようやく傾き、窓辺の花弁は夕焼けに溶けるようなオレンジを映していた。
「なあサホ。今日も、ピアノのレッスン行くんだよな」
窓枠に頬杖をつきつつ、ぼそりと呟く。
「サホちゃんアレ、ホッシーどうしたの?」
「魂抜けてない?」
額を寄せ合うようにヒソヒソ話し合われる声は、ただ耳の横を通り抜けていく。
「ホッシーはねえ、最近ずっと、心ここに在らずで物思いに耽ってるのよ」
おやつに出した菓子の袋をひらひらと振りながらサホが言うと、女の子たちは皆「そう……」と憐れみの眼を俺に向けてきた。
アレ今もしかして、触れてはいけない認定されたのか?
それでもいい。ガキどもからどんなに雑な扱いを受けようと、誰もが俺を残念な奴と認めようと、俺にはあの花がある。鮮やかな黄色が陽を跳ね返す姿を見れば、何もかもが吹き飛ぶ。まさに、俺のビタミンなのだ。
レースカーテンの繊細な模様の向こうに目を凝らしてみるけど、ヒナ先生の後ろ頭だって俺は見たことがない。
そうだとしても、もし、こんなヘタレな俺にもチャンスがあるのなら――
「サホ。窓のひまわり、いつも見ています、って、ヒナ先生に伝えてくれ」
「げ。それが口説き文句? ダサ。さむ!」
サホが本気で引いているのは、歪められた表情で分かる。サホは空の袋を俺に押し付けると、大股で歩き去ってしまった。ああ、そうだそうだと足元に転がっていたごみ入れのポリ袋を拾って広げると、男子児童が3人一緒に駆け寄ってきて、ごみを捨てるついでに俺の腹にパンチを食らわして逃げて行った。
「ねえ。ちゃんと伝言、伝えてきたけど」
ピアノ教室から戻ったサホの言葉を、数秒間理解できなかった。おやつの時間のあの様子から、まさか本当に俺の言ったことをそっくりヒナ先生に伝えてくれたとは思わないではないか。
「……お前、案外いい奴だな」
つい素の感想が口をついた。サホはなぜか顔を真っ赤にしている。
「はァ? そんなんじゃないし! ホッシーは自分の力だけじゃ口説く度胸もないだろうなって思ったから、サホが手伝ってあげてるだけよ! 言ったでしょ、サホは、しょうがないからホッシーの面倒見てあげてるの」
こういうところは、やっぱり子供らしさだよなあ。んふふ、と笑いを漏らすと、サホは「キモい笑い方しないで!」と更に怒った。
「もういい……ヒナ先生、ありがとうございますって言ってたよ」
尖らせた唇から報告された結果に、俺の意識はひととき、鷹良台放課後児童クラブのボロ園舎から遊離した。
見える。俺には見えるぞ。レースカーテン越しに射す光の中、ひまわりの花たちを背にはにかみながら「ありがとうございます」と微笑むヒナ先生が。柔らかな陽は、白ワンピの輪郭を眩しく滲ませる――
「ホッシー。ちょっとホッシー……もう、また心ここにないんだけど。引くわぁ」
視界の端で辛うじて、サホがむくれているのが見える。
構うものか。俺はもう引き返さないぞ。
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