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「サホ。今日はお前に、重大な任務を授ける」
その日、レッスンに向かう前のサホをつかまえ、俺は背筋を伸ばして彼女に対した。
「何、そんなコワい顔して」
一歩引き気味のサホの手元に、頭を下げんばかりの低姿勢でスッ、と一枚の紙切れを差し出した。
「俺の連絡先です。これをヒナ先生に渡してください。お願いします」
一拍置いて、サホはメモ用紙に手を伸ばした。
「あー……まじでこんなことまでする感じだったんだ」
「へ?」
「ん。分かった。渡しておく」
……何か妙な引っかかりがあったような気がしないでもないが、とにかくこいつにメモを託すところまでは漕ぎ着けた。
「おい! マジで頼むからな!」
階段を降り始める背中に、念押しの声を投げ込んだ。
夏の盛りとはいえ、子供たちを全員帰して俺たち職員も帰路につく頃には、割と辺りは暗くなっている。
騒がしさの極みのような場所から、しん、と張りつめた闇の中に出る瞬間は、なんか逆説的にというか、疲労を一気に感じる時でもある。
ミキ先生や福ピー先生の「おつかれ~」という声に頭を下げつつ、背を丸めるようにして歩き出す。通り過ぎざまにちらりと見上げる――視線の先は勿論、ヒナ先生の教室。
(灯り、まだついてる)
照明がカーテンの上に、ひまわりの形の影を作っている。
あの人はどんな毎日を、送っているんだろう。俺と似たようで、たぶん少しだけ違う生活時間の中に佇むあの部屋を、金色の花弁たちは見守っているんだ――
その時、ポケットの中のスマホがブルブルと震えて、俺本体も負けないくらいに跳ね上がった。
「うお」
動悸を鎮めつつメッセージの通知をタップする。画面の光は、夜の帳に馴染まず浮いている。
(――! これって――)
差出人の名前は、「永原日向」。
ながはら ひな さんというのか、恐らく。「ヒナ先生」の本当の名前は。
『お世話になります。永原ピアノ教室の、永原と申します。……』
まさか、まさかこんな秒速で連絡が来るなんて思わなかった。
背中を丸めたまま、なぜかそろそろと歩きながら画面をスクロールした。サホから俺の連絡先を受け取ったこと、わざわざすみませんみたいなことが書かれていて――
『……今お仕事終わりですか? ご苦労様です』
文末に目を細めたニッコリマークが鎮座する一文に、俺はもう一度跳び上がる。
(う、そ、俺のこと見て――!?)
立ち止まって、弾かれるようにまた窓を振り返るけど、灯りの中に動く影を、みとめることすらできなかった。
(とにかく早く帰って、返信しよう)
再びスマホをポケットに滑り込ませて、歩き出した、無意識だったと思うが、今度はひどく、背筋を伸ばして。
『鷹良台放課後児童クラブの指導員の、星野青児です。突然、連絡先渡したりしてすみません。……』
そこで文字を打つ親指は、動きを止める。
「うあ~~~」
学童保育の子供を通してまで、顔も知らない相手に連絡先を渡した理由を説明するそれらしい言葉が、どうしたって浮かんでこなかった。
「ええいままよ、誘ってしまえ!」
『もしよかったらなんですけど、今度食事でも行きませんか』
なんて、何の捻りもない一文なんだ。こんな直球に人を誘ったの、30000年振りくらいだ。
そもそも人を誘うなんて能動的な行動に出る機会そのものすら乏しく、また誘い方にセンスの欠片もない、自分の人間関係構築能力の低さが、今更ながら心底嫌になる。
(なんかもう、画面を見ていることすら耐えられない……)
変な汗をかいていた。「とりあえず風呂入ろ」と呟いた独り言が僅かに響いてから壁に吸い込まれる。こんな時、この家の空洞の多さ、空疎さが痛いほど突き刺さってくる。誰もいないし、モノもあまりない。Tシャツを脱ぎながら振り返った部屋に、「ああ、どこからどう見ても、疲れた大人の部屋だなぁ」と溜め息が零れた。
ベッドの上に投げ出したスマホが再びブルブルしたのはちょうどその瞬間だった。
「わーーっ!!」
ベッドにヘッスラして掴んだスマホは逃げるように俺の手を滑り落ち、裸の胸板をゴン、と直撃した。無機的なポリカーボネートの背面が、寧ろ火照った身体にちょうど良いくらいだった。
「う……」
中途半端な恰好のまま、どうにか顔の上に持ち上げた画面に浮かぶ文字は――
『いいですよ。週末でいいですか?』
「!?※*〇●△!?」
え? 行くのか⁉ マジで⁉
で。その週の日曜日。
(本当に来てしまった……)
待ち合わせの駅前でそわそわとその人を待っている自分の姿が、なんかひどく間抜けなものに思えてきた。だいたい、ここまでの話が不自然なくらい順調に進んだことが、今になって恐ろしくなってきている。
この前日、帰り際のサホに「ホッシー、明日がんばれよ!」とニヤつかれつつ手を振られたが、腕を組んで娘の帰り支度の完了を待つサホの母親の手前、俺は「あまり大人をからかうんじゃねえクソガキ」という言葉は飲み込んで、糸のように目を細めて「おう」と応えるほかなかった。
この筆頭クソガキの態度はいけ好かないが、それはそれとして、サホの働きがなければ今回の約束も取り付けられなかったわけで。こんな子供に頭が上がらない状況になっていることも、今の俺を滑稽に見せる一因となっていた。
そう思えばこそ、今着てる服も、予約した店も、何もかもがミスっているのではないかとすら思えてきて、尚の事人待ちの居心地悪さが増すのだった。
(何だよ……俺の方こそ、ガキかよぉ)
ほとんど意味もなく、時計を嵌めた左手を持ち上げかけた時。
「ホッシー先生!」
その人影は、当初から人の流れを外れてこちらに向かってきていたはずなのに、俺を知る人間の中でも一部しかしないはずのその呼び名で声を掛けられるまで、まさか自分の待ち合わせの相手だとは気付かなかったのだ。なぜなら――
「すみません、西口が分からなくて。少し迷いました。あの、ヒナです。ナガハラ ヒナタ」
嘘だ。この人が、「ヒナ先生」――?
さらさらの髪。夏場でも白い肌の上にバランスよく並ぶ顔のパーツ、それと、線の細い身体。
それでも、見れば分かる。今、僅かに肩で息をしながら、軽く上気させた頬で俺の前に立っているのは、白いワンピースに身を包んだ清楚系の美女、ではなく――
(お、男~~~⁉)
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