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「おいサホ。お前、俺のことダマしたな?」  頭が上がらないなんて思った自分が馬鹿みたいだ。俺はガキのたちの悪いいたずらに踊らされていたんだ――!  週明けの学童保育。取っつかまえて問い質すと、サホは悪びれるでも、誤魔化すでもなく、得心がいかない、といった表情を浮かべた。 「サホがホッシーをダマした? なんでよ」 「ヒナ先生が男だったなんて、俺聞いてない!」 「はァ⁉ なんでサホが悪いみたいになってんの」 「だって……ヒナ先生はとっても美人だって……」 ……おや、待てよ? 確かに「美人だ」とは聞いたが、一度たりとも先生は女性だとはっきり言われたことはないな。 「何だよそれ~~~。勘違いしてた俺が悪いってかァ~~」 「サホ、嘘はついてないじゃん。それに、ヒナ先生はほんとに美人だったでしょ?」 ……そうなのだ。男だと知ったところで、ヒナ先生に対したその時の感想は、「うわ、めっちゃ美人じゃん……」であった。  男を前にして、美人、綺麗、という言葉が頭に浮かんだことなんて今までなかった(そりゃそうだ)。  別に、女の子みたいに見える髪型や服装なわけじゃない。さっきも言ったが、ヒナ先生は見れば誰でも男と分かる見た目をしている。  それなのに、少し首を傾げる癖のある、眉を下げ困ったように見える笑顔は、俺の勝手な妄想の中でひまわりを背にして光に包まれていた、白ワンピお嬢さんの姿とどこかで確かに重なっていたのだ。  ここまでの前提すら覆される想定外の事態が起きたが、まさか「やっぱ帰ります」というわけにもいかないので、「とりあえず店、向かいましょうか」と歩き出す。  あー。俺なんで、今男と並んで歩いてんだろ。 「僕、まあまあ長いことあそこで教室やってますけど、学童さんの男の先生って、見たことないかもです」 ……そういえばこの人、いったいいくつなんだろう? 恐らく、俺の方が歳下っぽいが…… 「あー……こういう業界って、まだまだ女社会でしょうし……あ、ピアノの先生もそんな感じじゃないですか?」 「僕は個人でやってる仕事なので……普段はあまりそれを意識しないで済みますが。時々勉強会なんかに行って、自分以外みんな女性の先生なんてことはありますね」 「ああ、分かります、そういう、肩身の狭い感じは」 「ですね。今日お会いできてよかった。ホッシー先生にはなんだか勝手に、親近感みたいなもの感じちゃって」 ……そんな親近感の持たれ方、俺は夢にも思わなかったけどな。本当に勝手だな。 「ふふ、でもホッシー先生なら、もう子供たちにもだいぶ懐かれてるんじゃないですか?」 「どうかな……今はただ俺の存在が物珍しいだけかもしれません。ヒナ先生の方がよほど……子供たちの話聞いてると、慕われてるんだなって分かるし」 「そうだと嬉しいですけど。何にせよ、こんなご時世に、男の僕を信用してお子さんを預けて下さってることは、ありがたいなって思います」 本当にそれだ。何とも世知辛いものだ。俺たちみたいなもんには、絶妙に生きづらい世の中だ。  つい少しだけ、視線を斜め上の遠い空に向けてしまう。 「……あ。ここじゃないですか、ホッシー先生の言ってたお店」 「あ、あーはい、そうです。じゃあ入りましょう」 ……俺ちゃんと、予約もしてるんだよなあ……ほんと馬鹿みてえだ。  向かい合って席に着いた時の、何だろうなあ、この感じ。  絵に描いたようなおっとり系。繊細とか、儚いとか、形容するならそんな感じで、物理的な力比べで俺がこの人に負けるわけはない。  それなのに。この人は終始ニコニコと、至極穏やかな微笑みを浮かべているのに、何なんだこの――こちらに静かなプレッシャーをかけ続けてくる感じは……! 「サホちゃんたちから聞いてますよ。ホッシー先生かっこいいって、女の子たちはみんな喜んでるんだーって」 ……あいつ、俺のいないところでは素直に俺のこと褒めてんのか? 「ホッシー先生よく言われるでしょう? イケメンですね、とか。ミキ先生や福ピー先生にも言われませんでした?」 「あー……まあ……でも男としての興味とか好意があって言ってるわけじゃないって、執拗なくらい釘刺されましたよ。セクハラ対策とか気にしてるんだって分かってるんですけど、なんとなく傷付きはしますね」 「なら僕は、初めに断っておいた方がいいかもしれませんね」 力なく苦笑した俺に、ヒナ先生は微笑みの表情を崩しも、声を震わせることもせず言い放った。 「僕の言動は全部、ホッシー先生への好意からのものですよ」 「はっ? え? はぁぁ⁉」 いきなり、何言ってるんだこの人は――⁉ 「生徒さんたちから話は聞いてましたが、こうやって正面からお顔見させてもらうと、本当に思ってた通りというか、それ以上にかっこいいお方なので……正直ドキドキしちゃいましたよ、僕は」 「なっ……何言ってるんですか⁉ 唐突に!」 「唐突じゃないですよ」 静かで、抑揚がないのに、迷いなく確実に言葉を置いていく、そんな口調で遮られる。 「は……?」 「ホッシー先生は僕の顔を知らなかったんでしょうけど、僕からは先生の姿、窓越しに見えてたんですよ。だから偶然にしろ気まぐれにしろ、あんなふうに連絡先までくださったこと、正直嬉しくて……」 なんてアンフェアなんだ。こちらもヒナ先生の正体を知っていたら、今頃俺はこんな所にいない。 「あの、ホッシー先生」 「は……はい」 「最初に僕を見た時は、正直どうしようって戸惑ったんじゃないですか」 「それは……あの、すみません……」 「分かりやすく狼狽えられていたので。こちらが申し訳なくなったくらいですよ。いいんです、どうやら勘違いされているらしいことには気付いてたんですが、僕の方が、それを利用した感じになってしまったので」 「……」 「すみません。でも、こうでもしないと、せっかくのチャンスなのに、先生は僕に会ってくれないだろうって思ったから」  好意……? ドキドキした……? 利用した……?  言葉がただの音声になって、俺の身体をすり抜けていく。この人とは手を伸ばせば触れる距離で対峙しているのに、まるで言語の通じない異星人と会話しているみたいだ。  ……いや、違う。たぶん脳が、理解することそれ自体を拒んでいる。  だってこんなの、こんな急に言われても受け入れられるわけない。  何より受け入れられないのは、男にこんなこと言われてもうれしいはずもないのに――熱くなる顔、頭の中に痛いくらい響く自分の心臓の音。そんな反応が何らかの感情に起因しているなんて、断じてそんなはずない。これはただ、あまりに訳の分からないことを続けざまに言われて、頭が混乱しているだけだ。  フォークの先から、サラダに紛れる名前も知らない草が逃れていく。金属が陶器にぶつかる不快な音。それすら、俺の意識の遥か遠くで鳴っているような気がする。
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