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「ホッシー先生は、何か好きな映画とかないんですか?」  唐突にそう訊かれたのは、ヒナ先生による俺の「ピアノのレッスン」の初回。 「え……なんで?」 「映画音楽なら、楽譜はそんな難しくないアレンジでも、それらしく聞こえるので。意外と、手軽かなぁと思いまして」 「え? いきなり曲弾くんですか? もっとこう、授業でやったみたいな教則本的なものから入るのかと……」 「必ずしも、そういうものから始める必要もありませんよ。ホッシー先生は一度ピアノに触ったことがあるんですから、すぐ思い出せますよ」 「ええいや、だから、大学の時は全然身に付かなかったって……!」 「だいじょーぶ、だいじょうぶ。それにホッシー先生には、こんな可愛らしいものを作れる手先の器用さがあるんですから」 ヒナ先生がちらりと視線を送った先は、鉢植えのひまわりが鎮座する窓の方。その横の壁に、本物のひまわりと並べるようにして、折り紙でできたひまわりが貼られているのだった。 「……もう、恥ずかしいから、あんな子供だまし、教室に飾らないでくださいよ」 「えー? いいじゃないですか、僕ひまわり好きなんですよ。で? 何かありませんか? ホッシー先生の好きな映画」 俺は少しの間、んーそうだなぁ、と考えを巡らせる。 「あー……ウエストサイドストーリー、とか?」 一瞬の間の後、ヒナ先生はにやり、といった表情で深く頷いた。 「え? なんで笑うんですか」 「いやぁ……確かに、ホッシー先生好きそうだなと思って」 「どういう意味ですかそれ……ガキ相手の仕事が似合ってない自覚はありますけど、俺、そんなに不良っぽいですか」 ヒナ先生はくる、と背中を向けると、「ご自分で選んだんじゃないですか」と言いながら後ろの本棚を漁り始めた。 「……あ、やっぱりここに。ありました、ありました」 楽譜を手にして、ヒナ先生が再びこちらに向き直る。ことん、と譜面台に置かれたそれは、 「……Tonight」 曲名を呟く俺の後ろで、ヒナ先生はニコニコしたままだ。  先生に捧げると言った以上、こんなもろラブソングを選曲されるのは、ちょっと…… 「……ミュージカル映画なんだから、あんだけ曲色々あるのに、なんでコレなんすか」 「でもホントに、この曲ならそんなに難しくないんですよ。ラブソングですけど、構造は簡単です。右手が動いたら次は左手、って交互に動く感じで、左右別々の複雑な動きを同時にする、みたいなことはないので」 プロの先生がそう言うのだ、きっとそうなんだろうと思うと同時に、「よし、こいつにラブソング弾かせたろ!w」みたいな魂胆もばっちり透けて見えた。俺は様々複雑な感情を載せた眼をヒナ先生に向けつつも、ただ黙って頷いたのだった――。  それから、ただ1曲「Tonight」を弾けるようになるための、レッスン通いが始まった。大抵、俺の仕事が終わり、ヒナ先生も最後の生徒を帰した夜の時間が、俺のレッスンの枠として用意された。  ピアノ教室はヒナ先生の実家だが、防音が施された2階の教室の中にいると階下にいるはずのご両親の存在もほぼ感じられず(実際ご両親は俺のことを、時々いる大人の生徒さんだ、としか認識していないようだ)、夜にどこまでも広がる闇の中の一点、唯一灯りのある場所に、俺たちはたった二人で切り離されているような、そんな錯覚に陥る。 「あ~、ホッシー先生、またそこ、出鱈目な指番号で弾いてるでしょう」 大学時代に挫折している俺は、こんな初心者向けアレンジでも進みは牛歩だった。 「エッ⁉ ああ、最後の……」 「もう、ちゃんと楽譜に振ってある通りに弾いてくださいよ。正しくは、こうです」 突然、背後から腕が回され、俺の手の上に、ヒナ先生の手が重ねられた。 「っ……!」 (だめだ、何心乱されてるんだっ、レッスンに集中しろ、星野青児……!) そう思うのに、条件反射的に心拍は加速して、俺の手の水滴を拭った指の、背中にきつく巻きついた腕の残像が脳裏に去来する。 「分かりました、分かった……から、も、離してくださ……」 「だめです」 「――っ、」 いつか聞いた、余裕なく小さく揺れる声は幻だったのではないかと思うほど、何にも乱されない真っ直ぐな声音で、ヒナ先生は俺の耳元に囁く。 「ホッシー先生が完璧にできるようになるまで、離しません」 「は……」 「知ってました? 男性の生徒さんにはね、僕みたいな男の講師が教える方がいいんですよ。男性の奏者の利点は打鍵の強さです。それを引き出してあげられるのは、男の講師だけです」 一切の抑揚を消した口調は、冷たくすら響く。首筋に息がかかり、思わず肩がびくつく。 「ああ、だめですよ……肩上げて弾いちゃだめって、いつも言ってるじゃないですか」 「は……あ、すみません……」 ……この人、他でもない俺に本音を晒してから振り切ってるというか、遠慮がなくなったというか……いや、この男には最初から遠慮する姿勢などなかったが……とにかく、 (もうワザとやってますよねソレ⁉) やっとのこと振り返ってうらめしげな眼を向けてみるが、ヒナ先生は動じるどころか目を細めて溜め息みたいな掠れた笑いを漏らす。 「ウエストサイドストーリーは名作ですけど、」 「へ……?」 「あんまり、子供に見せたい映画じゃないですよね? そうでしょう、『せんせい』」 せんせい、の4文字をやけに強調して発音したヒナ先生は、腕だけでなく身体ごと、さっきまでより俺に寄せてくる。 「折角なんだから楽しみましょうよ、大人の時間を」 「……本当の大人は、そんな恥ずかしい台詞吐かないでしょうよ」 結構性格悪いことを言ったはずなのに、この人の前ではそれも空しい反撃らしい。 「Tonight」が完成するのと、俺の身が持たなくなるの、果たしてどちらが先だろうか……
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