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始まりの夜
「オハヨウ、オハヨウ」
どんなアラームより正しい音階が鳴る。それは決して機械音ではなく、生きた声だ。
女はそれに起こされる。毎朝、その声を聞くだけで心地のいい朝を迎えられる。顔のところは黄色で胴体は緑色の定番のセキセイインコが、ピンク色の優雅なドーム状の鳥かごで暮らしている。
「おはよう、ペペ」
「・・・・・・」
「どうしたの?具合悪いの?」
「オハヨウ、オハヨウ、ペペチャン、オハヨウ」
「あはは、ペペったら」
女は朝から機嫌がいい。一人暮らしを始めて二ヶ月半。新卒でとある印刷会社に勤めている。最初の一ヶ月は新人研修で忙しかったようだが、段々と要領が分かってきたのか、プライベートの時間も少しは作れるようになって来た。 それでも尚、働き盛りの働き始め、社会人の辛さを痛感する忙しい毎日である。女の住むアパートは二階建てになっており、女は二階に住んでいる。たいそう古いアパートではあるが、最近水回りのリフォームが済んだばかりで、なかなか清潔感はある。大学は実家から通っていたようで、親元を初めて離れた寂しさもあり、女はインコを1羽飼うことにした。オスのセキセイインコ、『ペペ』と名付けられた。
「ペペ、行ってくるね」
「イッテクル、ペペ」
ぎこちない会話が女の顔を朗らかにする。仕事前のルーティーン、適量の餌をかごの中に入れ、玄関を出る。眩い陽光に包まれる朝。悔しいほどの晴天で、気分は清々しく、空と心は透き通る。最寄り駅まで5分ほど歩いて電車に乗る。それまでの道のりが、女は好きだった。犬の散歩をする優しい目の老夫人、早くから花に水をやる主婦、疎らな学生服。女の目に映る世界は蛍光色の雑貨屋にいるクジャクの羽の様で、色彩が渦を巻いて美しい。それは、彼女の純粋無垢な心を鏡で反射した現象であった。
女が見る世界の住人は、黒髪をポニーテイルで泳がせた器量のいいOLがスキップせんばかりに軽やかなのを見て目で追う。綿密に張り付いて、若い女体の妖艶でしなやかなのを、より明るく濃く強調する甘美なスーツを着ているのだ。皆釘付けであろう。
仕事を終えた女は足早に帰宅する。上司の飲み会への誘いはもちろん断って、颯爽と家路に着いた。玄関の郵便ポストの右側面に小さなハートを見つけ、ランタンみたいな笑顔を浮かべる。
部屋に入ってすぐのこと。全く以てガードの堅いような美女が後ろで一つにまとめてあった髪を解し、肩までの純粋な黒髪を振り下ろす。なんだか不思議な気持ちになる。
「イソガナキャ、イソガナキャ」
「ペペ、どうしたの?私朝そんなに急いでたかな」
「シズカニ、シズカニ」
「ペペったら、もう。お腹がすいたのね」
「……マエ……イル」
「え、何がいるの?ご飯じゃないの?」
「マエ、イル」
女の目の前にはクローゼットがあるので、この発言は気味が悪い。冷や汗を掻き、身構える。
「なに?なにがいるの?」
女はクローゼットの中を覗き込んだ。そこには予想だにしなかったようなグロテスクな刹那の残像は見えなかった。いつもと何も変わらない平凡なクローゼットのままだ。右半分に外套類やお気に入りのTシャツが掛かっており、その下には三段になった下着や靴下がまとめて入ったプラスチックの引き出し付ケースがある。左半分はただ一つの板に水平に区切られていて、上部には布団が畳んで置かれており、下部はもはや、新生活を始めた際のドタバタの掃き溜めとなっている。
左右を隔てない、一番上のスペースは、滅多に使わないであろう、これも引っ越し時に意気揚々と買った簡単な工具などが手前に少しだけ置いてある。絶対に使わないであろう頑丈な家具のスペアパーツなども一緒に。とにかく雑多な物が入っている、ありふれたクローゼットの景色だが、そこにあるのはただそれだけだ。目の前に広がるのはいつもと変わらぬ一人暮らしの部屋の一画。生活感だけが薄らと漂う。
「ペペ、何も居ないよ。やっぱり餌が欲しかったのかな?」
「オカエリ、オカエリ」
ペペはいつも通り、麗しい女主人に手伝いで餌を貰い、満足したのか打って変わって喋らなくなった。しばらく女に撫でられると、急に鳥かごに帰って寝てしまった。女も疲れていたのか、ソファでそのまま寝入ってしまった。
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