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告白
女を眺める。やはりいつ見ても洗練されていて、汚れを知らない純粋な頬は少し赤らんで、まだ未完成なのに成熟した、壊れやすい芸術作品を思わせる儚さの匂いを漂わせている。人を殺しても手に入らない、汗と甘い汁のようなパフュームが混ざった、マザーみたいな香りがする。
拝啓から始めた方がいいかな。とても口べたなんだ。それは分かってくれるよね。根暗では無いけど、とにかく大きな音が嫌いで、そうするとほら、自分で出す音にもビクついて生きるハメになるだろう?だからこんな人間が生成されたんだ。沈黙の中から。闇雲に。井戸の底から出てくる、あの怪物と同じさ。
ボクは、いつ告白しようか、いや、しない方が幸せかなと、考えあぐねた結果、今こうやって、誰にも真似できないような真摯さで、真っ正面から君に向き合って、堅実に気持ちを伝えることにした。自分でも耐えがたい様なこの顔面は、君にとっては道端に落ちているどうせろくでもない野郎が吐き捨てたガムに近しいだろう。でも落ちぶれたガムだって、もしかしたらいつの間にか、ヒールの小さな面積のピンに運命的に触れ合って、ずっとしがみついておけるかも知れない。君にとっても、ヒールにとっても、しつこい汚れとして認知されるだろうけど、それでも、一緒の時間と空間を共有していることには違いないし、宇宙のどんな法則よりも確かに導かれていると思うよ。君がそんな可能性ゼロだと言ったって、それを1に変えてみせるよ。きっと僕は、そうさ。
さて、どこから話せばいいんだか、あれはね、友人の話からだったかな。高校生の時のね、友達が――コイツは、ボクの唯一といっていい友達なんだ――
大学の時に住んでいたアパートがあってね、そこにはボクもよくお邪魔してたし、なんせ近所だから、馴染みの場所だったんだ。その時は実家暮らしだったから、余計に入り浸っていたよ。それでね、変に思わないでくれ。俺はこっそり合い鍵を作ったんだ。もちろん、親友の許可は取らずにね。でも彼は許容してくれたんだ。きっと最初から気付いていたんじゃないかな。彼が去った後も、名残惜しくって。ほら、幽霊みたいなもんさ。ボクは信じてないけど、確かに部屋への愛着ってあるんだね。身寄りのない老婆、毎晩女を取っ替え引っ替えする看護学校の専門学生、ホスト狂で自殺した阿婆擦れ、色んな人を見てきたよ。それまではただ、生活習慣を把握して、肝試しみたいに、1マイクロメートルも物を動かさないようにして、楽しんでただけだったんだ。
でもね、ある日君が現れた。
あの日から、ボクは侵入を止めたんだ。ボクは下着を弄ったり、私的な情報を得て興奮する質じゃないんだ。君の吐いた唾の着いたティッシュや抜けた髪の毛、爪なんかを収集する癖はない。生理用品なんかは、絶対に他の誰にも手出しさせてない。ボクはね、余り整った顔では無いけれど、とことん紳士なんだ。それに君は特別なんだ。あえて名前は呼ばないよ。長谷川梨花ちゃん。距離感は大切にするタイプなんだ。とにかくI'm crazy for youなんだよ。もうゾッコンなんだよ。これは純粋な恋だ。誰もが認める、清楚な恋。だから部屋にはもう入れない。そう思っていたんだ。
「お前はほんとにピュアなやつだな。いい友達を持ったよ」
彼はそう言ってくれたんだ。唯一無二の友人だ。親友だよ。例の友達さ。彼がその後に神様みたいなことを言い出したんだ。何でも一つ、願いを叶えてくれる神様さ。
「そういえば、あまり知られてないけどさ、このアパート、屋根裏部屋があるの知ってる?他の部屋は知らないけどさ、俺の部屋にはあるんだよ。"秘密基地"ってやつが」
まず耳を疑ったね。今時アパートにそんなものあるのかと。それでも、彼は躊躇無く実践して見せたんだ。台所にある、ベリィスモールな脚立みたいな物を持って来て、クローゼットの隔たりの無い最上部の上に――これがかなりキツくて、痩せ型じゃないと無理だね――仰向けに横たわる様にして入ると、天井には宇宙が広がっていたのさ。
「親が来る時なんかは念のために、AVとエロ本の常備選抜をここに仕舞っておいたんだ。身体を上半身と下半身に分けながら窮屈に入らなきゃいけないけど、入ってしまえば人っ子一人、なんてことない世界が広がってるんだぜ。汚いけどさ、宝物汚したくないから、俺の代ではよく掃除してたな」
こんな話をね、もちろん、君の部屋でしたんだよ。お仕事頑張ってる間にね。これは運命なんだ。ボクが親友を持って、彼が部屋に過去に住んでいて、このアパートがオンボロで、さらには君が二階を選んでくれたお陰でね。何も無い様に見えるでしょう?クローゼットの天井には。でもね、角度的に視認するのは無理に近いけどね、確かにあるんだよ。ボクは恋焦がれた君の部屋の、静かなる幽霊になったんだ。
それから一週間は経ったな。君が居ない昼間は基本的に外に昼食を摂りに行く。その際の出入りには最新の注意を払いたいので、例の親友に協力して貰う。彼は宅配便の業者で働いているから、休憩の時間に合わせて、近隣住民の目を連携して回避する。といっても、殆ど静かなんだけどね、この辺一帯は――このアパートも含めて――犬と空き缶の違いも判らないボケ老人ばかりさ。それにもし見られたとしても、親友の格好でカモフラージュできる。俳優志望の彼は、もう既にカメレオン俳優なんじゃないかな。本当にいいやつなんだ。今度また会わせるよ。もう会ってるか。だからさ、今彼にはボクが君の所へ来るまで住んでいた部屋に居候してもらってて、感謝の気持ちとして家賃も払ってる。こう見えて、経済力あるんだよ。双方にとって利害関係が一致している、いい関係なのさ。
ところで、今日はさすがに焦ったよ。少し羽を伸ばそうと、昼に親友と少し遠くまで遊びに行ったんだ。夕方の五時には帰ってくる予定だったんだけど、羽が伸び切っちゃって、遅くなっちまった。19時前になちゃったんだ。急いで部屋に入ると、外で様子を見計らっていた友人が「女がすぐそこまで来ている」と、要領がいいのか焦躁に駆られてるのか判らない声で電話してきたからさ、ボクは地獄の業火の中へ作業中に落ちてしまった悪魔の様な形相でさ、屋根裏部屋を目指したんだ。友人がくれたあの軽い脚立も忘れちゃって、どこかの民族か発情期のウサギみたくジャンプしたよ。何度か失敗しちまって更に焦って、大人しいはずのボクは独り言ちたんだ。
「急がなきゃ、急がなきゃ。どうしようか。違う、ダメだ。静かにしなきゃ、静かに」
自分でも驚いたね。火事場の馬鹿力っていうのかね。小さな屋根裏部屋には羊水みたいな安堵感が漂っていた。君の匂いにとてもよく似ているんだ。これが。だが安心したのも束の間だった。あの腐れインコめ。可愛い顔した鬼だよ。なんて高性能なレコーダーになってくれたんだ。それでも疲れていたのかな?君は気付かなかったみたい。ボクは一安心さ。寝付きが鮮やかなのもよかった。これにて今日も、君と過ごせるのさ。同じ空間を吸いながら。同じ匂いを留めながら。同じ時を過ごしながら。いつもなら閉めてしまうクローゼットもお陰様で開いたままだ。これはインコに感謝だな。焼き鳥にして食ってやる件は取り敢えず白紙だ。
君の横顔は旬の桃みたいに薄く赤らんでクラゲみたいに小さく揺れる。首筋が丸見えで、吸血鬼の友人がいたなら呼び起こして吸わせてやりたかったほどだ。白桃だな。恐ろしく陽気に色白。発光してるみたいに眠るんだな。やはりクラゲだ。スーツのまま、少し大胆になった胸元は息をして、沈んで、浮上する。男に触れたこと無いような顔して、ひとつ戦争を起こしてみる程の胸を持ち合わせて、君にはほんと、言葉を失いそうだよ。
それでも触れられない。ボクは醜いだけで、強くもないし、特筆すべき能力も無い。あるのは、この鋼を打ったような、君への愛情だけだ。直接触れられなくていい。互いに秘密を抱えたこの距離が何より心地いいのだ。ボクは彼女が気付かずに飼っているペットのようなものさ。あの焼きインコみたいにベタベタしたりはしない。もっと芸術的な愛を提供できると思う。だからこうやって確かに手紙に記している。この手紙を読んだ君は――最後まで読むことは無いだろうけど――どんな表情で、どんな産声や喘ぎ声を上げて、どれほど狂おしく愛おしい表情をするのか、この目でじっくりと見てやりたい。そしてボクの芸術を完成させたい。ボクの願いを叶えてくれ。これは完璧で純愛な、紛う事なき初恋なんだ。君にこの気持ちが少しでも伝わってくれるなら、ボクは死ぬまで刑務所でもいい。生身で宇宙に放り出されてもいい。聞いたことも無いような薬の実験体にしてくれてもいい。サメに喰わせて見世物にするでもいいし、なんでもいいから、ただ骨抜きにしてください。この醜い皮から脱却して、君と過ごした時間だけを脳みそに記憶させて、この鼻腔にこびりついた君の首筋の汗と仄かなパフュームの混ざった香りだけを保存して。一生死んでゆきますから。
これは終わりではないですから、敬具は書きません。甘酸っぱいですね。ボクに青春をくれて、ありがとうございます。いつまでも愛しています。
親愛なる同居人より
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