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店を出た私は、ヒールだったら間違いなく挟まりそうな石畳の坂を上がっていく。
ここ、パリのモンマルトルへ留学しに来て、もうすぐ1週間が経つ。
言葉はおろか、目の前を流れていく独特な街の景観にさえも、まだあまり慣れていない。
そこかしこにある鉄柵や建物の造り一つ取っても目新しくて、ついつい注意が散漫になってしまう。
スリにあったりしても嫌だし、早いとこ慣れないとな。
どんなにおしゃれでも流石は海外。治安は日本がアホらしく思えるほど悪い。
浮かれ気分もほどほどに、と気を引き締めて、私は歩みを進めた。
魔術は基本的に、一般人には隠されているものだ。
これはズーシェンから聞いた話だが、魔術とはもともと戦闘のために使われてきた技術で、争いで発展してきた文化だったらしい。今でこそ、日常を少し彩る程度のものだが、もし今の世界で魔術が公に使われ始めたらと思うと、たしかにゾッとするものがある。
お目当ての場所は住宅地の一角、何の変哲もない"真っ白い壁"にあった。
「身体強化……」
私は己の胸に右手を当てながら、唯一使える魔術を発動し、左手で壁に触れる。
すると今までそこにあったかのように、古びた木製のドアが現れた。
この店に入るために必要なトリガーは"魔術"。何かしら魔術を発動した状態で壁のある場所に触れると、触れた者の前にのみ、扉が現れるという仕組みらしい。
一体どれだけめんどくさい術式をかけているのか……見習いの私には、想像しただけで目眩がしそうだ。
何度も周りを確認しつつ、店内へ足を踏み入れる。
こういう日常の隙間に仕掛けられたギミックを目の当たりにし、案外身近なところにも魔術は存在してるんだな……と私は思った。
そこはまさに異空間……いや、魔術で入店してる時点でだいぶ異空間だけど。漂っているお香の匂いに、棚にびっしり並んでいる不気味な漬物たちとか、昼なんだか夜なんだか分からなくなるこの薄暗い照明とか、外とは完全に隔絶された世界のようだ。
感嘆の息を吐いて棚を見上げていると、脇腹を何かがつついた。
誰かの邪魔になっていたのかと思い、慌てて振り向くと。
薄暗い中で不気味に浮かび上がった能面が、静かにこちらを見据えていた。
こんな声出したの、いつぶりだろう……3年の時の夏大会以来か?
なんて思いに耽りながら、私はイガイガと痛む喉に手を当てていた。
[だ、大丈夫?]
能面をしてても分かるほど狼狽えてる様子でプラカードを掲げているのは、ここ『岩永屋』の店主、岩永静香だ。大正風というのだろうか。落ち着いているも可愛らしい青紫の和服が、能面の不気味さをささやかに中和してくれている。
ちなみに、どうして能面なのか? どうして筆談なのか? なぜパリを拠点にしているのか? 彼女は日本人であるという事以外、その素性も素顔も未だに謎である。まぁ、これで会ったの2回目だし、知らないのも無理はないだろう。
私は咳払いの後、大丈夫ですと若干苦々しい笑顔を見せた。
「あ、これ頼まれてた物です」
岩永のあまりの印象の強さに忘れかけていたけど、そうだ、これを届けに来たんだ。
紙袋を受け取った岩永は音もなく中身を確認すると、嬉しそうにプラカードを掲げた。どことなく笑顔を浮かべているようにも思える。
[たしかに、いただきました!]
能面なのに表情が豊かだ……そして多弁だ。
そんな矛盾したことを思っていると、プラカードの文字が切り替わっていた。
[そうそう、驚かせてしまったお詫びにお茶でもいかがですか?]
「いいえ、大丈夫です。多分まだ仕事ありますし……」
というか、一体どうやって書いてるんだそのプラカード……速記、ではなさそうだ。
[大丈夫。ずーちゃんには、私から言っておくから]
ずーちゃん、とはズーシェンのことだろう。どんな関係か知らないけど、この二人は妙に仲が……いや、どっちかというと母と娘のようだ。ちなみにズーシェンが娘だ。
「で、では、お言葉に甘えて」
[はーい]
丸文字の可愛らしい文体に、こちらもついつい笑みが溢れてしまう。
遠い異国の地で出会った先輩魔女が日本人だったなんて、そうあることじゃないだろうし。今後とも仲良くしていただきたいものだ。
ふと岩永の方を見ると、能面の上から湯呑みに口をつけようとしていた。
「ちょ、お面お面!」
[お面してたの忘れてたわ]と恥ずかしそうに手を顔に当てる彼女だが、どれだけ能面をつけたままなんだろうか。
「き、気をつけましょう……」
その後、能面の圧力のせいか特に会話も弾まず、お茶を飲み干した私は、早々に店を出たのだった。
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