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(miscalculation)
その場所に十人はいた。
唐突にいた、と言っても過ぎた台詞ではないほど十人はそこ気づいたらいた。
お互い顔の知らない十人。
その場所、と言っても各人、その場所、は分からない。ただ周りはコンクリートに覆われて、天井には大きな蛍光灯があり、それが部屋を満遍なく照らし、室内の隅にはドアがある。部屋は暑いとも涼しいとも言えず、おおよそ適温といった状態。
所謂、『密室』という状態以外には不快感や不自由感はない。ただ十人ともども不可思議な印象や不信感はある。それは密室にいるという状況からだけではなく、十人が自然と輪になって整列している部屋の中央に、幾本かのナイフが並べてあるからだ。
静寂と騒然が絡み合う奇妙な状況。皆は顔を見合わせながら、微妙な距離感をもって警戒し合う。十人の腑分けとしては老若男女で、特にそのような身体的特徴で選別されたという感はない。ただ、AとBとCとDとEとFの六人の性別は男性で、Dは白髪混じりで初老ぐらいの見た目で、他の人間は二十代から三十代の年齢層に見える。残るGとHとIとJの四人の性別は女性で、やはり外見は二十代から三十代に窺える。
人によっては一人呟いていたり、やたらとキョロキョロと周りを見渡していたり、当然、挙動不審じみた動きをしている人間もいる。兎に角、十人皆の所作の共通点は、集まったナイフの周りをゆっくりと歩き、お互いをけん制していること。
否が応でも緊張感が漲っている。
その時、一人の人間が動いた。
Cだった。
Cは突然十人が規則性をもってナイフの周りを歩いていた輪の運動からはずれ、ダッシュして真ん中にある幾本かが重ねてあるナイフに手を伸ばした。それからはなし崩し的に他の九人も一斉にナイフを我先にと奪取した。
だが、全員が全員ナイフを手にできたわけではなかった。
Dのみナイフを入手できなかった。
つまり、ナイフは十本ではなく、九本しかなかったということ。
そうであったため、この十人の中で恐らく一番高齢であろうDの動きに遅きが出た、という結果になったか。
何ともバツが悪そうな表情になるDだったが、平静を装い何故か苦笑いをしながら周りを見渡す。他のナイフを持った連中は連中で、あきらかに不自然なはにかみ顔をして返す。全くもってカオスな空気感と独特の間。だが、それでも十人はこの状況に徐々に順応していく。
十人は言葉にこそ発してはいなかったが、まさしく気がついたらそこにいた、という感覚を共有していた。眠りから覚めたら、この場所に集められていたという感覚ではなく、まるで夢遊病者のように、いつの間にかここにいた、という知覚なのだ。それなので誰もがなかなか公的に口を開いて何かを述べる事も出来ず、また、説明する事も適わない。つまりは皆が皆疑問を持ち、何を言葉にして良いか分からない。
ただ、突発的な自己防衛本能的に密室にあるナイフを手にした。そして、ある者がドアに近づきノブを回してみたが、案の定、鍵がかかっていて開ける事は出来なかった。その感触は頑強で、とても蹴破って開くような代物ではないと、その人間は容易に判断できた。傍観していた周りの人間もそれにはすぐ理解したようだった。
しばらく十人は緩急が判然としない空気感のもと、三々五々、ボソリボソリと誰からとでもなく、軽い自己紹介を始め、簡単な互いの事情を知る事になった。そして、各々しゃがみこんだり、ただ突っ立ていたり、いまだにウロウロと歩く者がいたり、手に持つナイフを舐めるように眺めていたりする者がいたりと、それぞれのスタイルで自らが置かれているおかしな状況下に対応していた。近くの者に何やら小言で話しかけている人らもいれば、体育座りをしたまま、目を付して全く関わろうとしない者もいるが、基本的に未だに部屋の全体の雰囲気的には沈黙状態にある。と同時に、各人、多少は自身の緊張感が解けているようでもあった。奇怪な環境とはいえ、暫くその異常な時間を共有したからこその同属意識の賜物か。
やがて、一人の人間がやおら口を開いた。
B「さて、この状況は、どういった事か……」
A「どうしたも、こうしたも、何が何だか分からない事だらけ過ぎて」
H「まるで不条理モノの映画みたいなシチュエーションだわ」
D「ほう、映画的な展開だと捉えますか」
H「だってそうじゃない。こんなだだっ広い部屋に十人? が閉じ込められて、その……何て言うか、ナイフを握らせている、みたいな」
G「そうよね。何かサスペンスな雰囲気、かつ、非現実的な状況よね。シュールで怪奇的で物語的って感じ」
A「何かGさんは楽しそうですね」
G「まさか。だけどこんな立場になるのは初めてだから、変なテンションになってはいるかも知れないけど」
C「何をそんな悠長な事を言ってるんだ! 俺たちは閉じ込められているんだぞ。これは立派な拉致監禁じゃねえか」
E「確かに呑気な事を考えている状況じゃないですね。このシチュエーションを理解する事が焦眉の急です」
G「別に私だって余裕がある訳ではないわ。異常だからこそ変な気持ちになってるのよ」
D「うむ、理解し難い異常な状況です」
E「密室、ですもんね」
J「何処かにまだドアとかが無いんでしょうかね?」
A「そうだね。隠し扉みたいな」
G「忍者屋敷じゃないんだから。こんな全方位コンクリートの壁一色の無機質な密室から出られる所あるの?」
D「密室ではあるけど、空調はきいている感じだが」
F「……私は少し寒いんですけどね」
B「そうですか? 僕は特に不快感はありませんね。何処かから換気をしているのでしょうか」
C「だからそんなのんびりした会話していても仕方ねえだろ。兎に角、この部屋に閉じ込められているのは変わらないんだ」
A「それにナイフをそれぞれが持っている事もね」
C「…………」
B「さっきからCさんは語気を強めて色々言っていますけど、一目散に床に撒いてあったナイフに飛びついたのはCさんでしたよね?」
C「そ、そ、そんなの当然だろ。こんな見知らぬ他人同士が一ヵ所に集まって、目の前に凶器まで置かれていたら、咄嗟に自分の身を守るために……」
G「あら? すぐにCさんはナイフを見て、それが自身の危害に加えられるのとでも思ったの。本当はその逆で自分が危害を加える側になろうとしたんじゃない?」
C「そんな訳ないだろ!」
H「自分の保身のため、だけという理由だけではちょっと有無を言わない行動だったので、こっちが怪しむのも無理ないわよ。本当は何か知ってるんじゃないの?」
C「おいおい、待ってくれ。誤解にも程がある。俺だって、その、なんだ……そう、被害者側の人間だよ!」
E「そうです。皆さん、ちょっと待って下さい、落ち着きましょう。皆さんは少し今の状況をシアトリカルに捉えすぎです。ここは現実的に考えましょう」
I「シアトリカルってどういう意味ですの?」
D「兎に角、冷静になりましょう」
A「さすがにこの中では年長者のDさんですね。年の功、冷静沈着だ。だけどあなただけはそれこそナイフを持っていない。いや、持てなかった。よくそんな状況になっていても落ち着けているものですね」
D「そうです。私はナイフを持っていない。しかし、あなた方は持っている。結局は、Cさん云々ではなく、皆さんもナイフを持っているんだ。みんな一緒でしょう」
G「確かにそうだけど……」
C「それに私は皆さんを信じていますから。あくまで皆さんは突発的に、そう、身の危険を察知したから本能的に一斉にナイフを手にしまった。だから自己防衛のためなのだから、あくまで他人を攻撃するためにナイフを手にしたわけではない、と私は信じております」
E「性善説ですね。だけどさっきDさんは、現実的に、とおっしゃいましたが、この今の状況が現実とはあまりにも乖離し過ぎている。こんな突飛な状況下で、どれだけ私は理性だけで皆が平静を保っているかが引っ掛かりますね」
B「ちょ、ちょっと怖いこと言わないで下さいよ、Eさん」
E「すみません。別に煽っているわけではないんですが、今はまだこの不可思議な環境に慣れ始めだからアレですけど、長時間この部屋に閉じ込められたらどうなるか、と思いましてね」
H「確かにこのまま長い時間監禁されてたらどうなっちゃうのかしら?」
G「そうよ、何だっけ。そうそう、拘禁反応とか言って頭がおかしくなっちゃうヤツとか」
F「…………」
D「そんな自らに変なプレッシャーを与えるのはよくありませんよ」
E「しかし、これは明らかに人為的行為ですよ。理由は分からないけど、何処かの誰かが仕組んだ罠、とでも言いましょうか。そう、それこそこの中の誰かが犯人かも知れない」
D「そんな馬鹿な」
B「いや、Eさんの言う事も一理あると思いますよ」
A「でも、それだったら何のために?」
B「そんなの僕には分かりませんよ」
D「兎にも角にも、今は皆が皆、疑心暗鬼になるのは危険だということです」
E「あなた以外の皆がナイフを持っているのにも関わらずにですか?」
D「…………」
F「…………」
G「ま、まあまあ。物騒な話はいったん止めようよ。ちょっと、そうだな、ゲーム感覚でこの部屋からの脱出方法とかでも考えてみません?」
A「脱出する方法を考えるのも良いですけど、まずは根本的にどうして私たちが集まったのか、というのを考えてみませんか」
G「全員が全員他人同士なのは間違いない訳よね。だったら実は私たちは気づいてないけど、みんなが知らない共通点があり選ばれて集まった、みたいな」
B「例えば何ですか。出生地とか血液型とかからですか。年齢や性別では違うと思いますけど」
G「お互い言い難いドス黒い過去があって、そんな恨みを買う昔の行為に接点があるとか」
H「誰にも告白してない暗い因果ね」
B「いやいや、そんなまさしく安っぽいテレビ・ドラマじみたミステリーな話。だいたい何ですか、黒い過去やら因果って。僕はある程度真っ当な人生を歩んできたつもりですがね。それほど人様に恨まれないような」
C「そりゃ表面はみんなそう言うよ」
E「いや、でも、ここで色々とより詳しい自分たちの事前情報を話していたら、真偽の確認も含めてキリがありません。もっと効率的にアクチュアルな話をしましょう」
I「アクチュアルってどういう意味ですの?」
A「じゃあ、まずは、どのようにしてここへ来たかを探るのはどうですか?」
H「そこなのよねえ。どうやってここに来たかっていうのが曖昧な記憶で……」
B「そう。変な話だけど気づいたらここにいたって感じで。何だろう……催眠状態になっていたというのかな。麻酔でも打たれていて、それでいて半睡眠状態でいたような……」
C「そうだ。俺は少し思い出したぞ。俺は趣味で献血をしているんだが、今日は献血ポイントが2倍って事で献血したんだ。ただ、おかしな事にそれ以上の記憶がない。何処で献血をしたかとかすらも覚えてないんだ」
E「言われてみれば、確かに……私も献血を率先して行っている者です。ラブラッドに入ってますから」
I「ラブラッドってどういう意味ですの?」
G「あ、私もそうよ。献血とかしてるタイプ。そう言えば私も今日、ここに来る前に献血をしたような、ぼんやりとした記憶があるかも。だけどCさんが言ったようにその後の記憶、というより、その前後の記憶がすっぽり抜き落ちているみたいな感じ」
H「私も献血とかはやる方だけど……もしかしたら、うーん、駄目だなあ、思い出せない」
B「確かに献血ってのは僕も参加する方だな」
A「私も」
F「…………」
D「どうやら皆さん、かなり記憶は曖昧ではではあるけれど、献血、という共通点がありそうですな」
E「そうですね。もしそれが当たっているなら、我々はその献血の際に妙な注射を打たれて、頭がぼんやりした状態で、いつの間にかここに来させされた、という考えもありえますね」
A「どうして? 何のために?」
E「それが分かれば苦労はしませんよ。私は私立探偵(プライベート・ディテクティブ)ではありませんから、うまい推理は出来ません」
I「プライベート・ディテクティブってどういう意味ですの?」
B「まあまあ、結局の所、拉致にして監禁されている現実は変わらないんだ。目下、ひとまず一つの事に絞って、皆で協力していった方が良いと僕は思いますね」
G「私も賛成」
E「プライオリティーとしては、やはりこの部屋からの脱出ですかね」
I「プライオリティーってどういう意味ですの?」
C「ああ、もう話していても埒が明かねえ。だったら俺がもう一度あそこにあるドアをぶち壊してみる!」
A「無理ですよ、Cさん。あんな頑強そうなドアを力づくでなんて」
C「畜生! 幾ら蹴っ飛ばしてもビクともしねえや」
B「少し合理的に周りを判断してみて、ここから抜け出す方法を考えてみましょうよ」
G「そんな事言っても、何処か他に出入り口があるとは思えないけど。一面、コンクリの壁にしか見えないし」
E「確かに先ず一見すれば、壁面のみの密室」
H「壁を一つ一つコツコツと叩いて、何処か空洞みたいな所を探してみるとかは? さっきの隠し扉の話じゃないけどそんなのもあるかもよ」
D「果たしてどうでしょうね。そんな仕掛けがあって、どういう意味があるんでしょうか。話を元に戻すようで恐縮ですが、そもそもどうして我々がこんな状況下に置かれているかの理由が分からない」
G「きっと何者かの仕業だとは思うんだけど、愉快犯なんじゃないかな。私たちをこんな意味不明な場所、状況に追い込んで焦って苦しんでいる姿をみて楽しんでいる、みたいな」
B「だったら何処かで僕らを監視しているということですか」
G「多分ね」
A「じゃあ、何処かに隠しカメラでもあるのかな」
E「もしそうだとしたら、犯人は相当なサディスティックな奴かも知れませんね。ヘタすれば猟奇犯(ビザール・クリミナル)の性格破綻者かも」
I「ビザール・クリミナルってどういう意味ですの?」
D「いやはや、単独犯ではなく複数犯とも考えられますしね」
H「それにしたって、そんな人を集めて困っている姿だけを見る為だけに、こんな大袈裟な事をするかしら。冷静に考えてみれば単純に私たちは閉じ込められているだけよ」
A「いや、単純に監禁されているだけじゃない。皆がナイフを持っている」
C「…………」
F「…………」
D「…………」
B「Dさん以外はね」
G「あら、まるでDさんだけが完全な被害者みたいな言い方ね」
H「そうよ。ただDさんはナイフを取るのが遅かっただけで、もし間に合えば手にしていたはずよ。その辺りはどうなの、Dさん? 正直に言ってみてよ」
D「そうですね、Hさんの言う通りです。私だって人より早くナイフを取っていれば、自己防衛の面で安心できたと思っています」
E「まあまあ、何か話の趣旨がズレてますよ。Dさんがナイフを持っていない云々を討議する事が目的じゃないでしょう。この不条理な事をした人間がどうよりも、この不可解な事実を再認識する事が重要じゃないんですか」
C「そうだよ。このふざけた状況をどうにかしねえといけないんだから」
A「それにしてもあまりにも何もヒント、というか目的が分からな過ぎる。何も加害者、もしくは仕掛け人からの要求や説明がない。音声にしろ手紙にしろ、何の情報も発信していない」
G「だから単に私たちを閉じ込めて、一人でクスクスしてるだけが趣味なのよ」
B「だけど、その奇妙な嗜好の果てにあるものは?」
H「果てにあるもの?」
B「つまり、僕らの最終的な処遇ですよ」
F「…………」
E「結局、この企画の意図は分からないまま。実行者の意向も本人が提言していないので我々は知り得ない。このままでは、ただただ我々はここで無意味に時間を潰しているだけ。もし、その状態を延々と企画者が望んでいるとしたら……」
C「どういう事だよ。俺たちをこのまま閉じ込めて腹を空かさせ兵糧攻めにでもして、その苦しんでいる姿を見て楽しんでいるとでも言うのかよ」
E「それも一つの案ですね。餓死刑なんていうのは昔からポピュラーにある拷問ですからね。犯人が病的なサディストなら、飢餓で苦しんでいる私たちの様子を見て笑っている、というのもあり得る。もしくは僕らが疑心暗鬼に陥り、困り果てている姿を覗いて、ワイングラス片手にソファに腰深く座っている、とか。兎に角、見えない敵は我々が煩悶している様子を窺っているのではないでしょうか」
G「だったら最低な趣味の変態野郎ね」
A「犯人が男だとは限りませんよ」
H「どっちにしてもこのままでは埒が明かないわ。これからどうすれば良いのよ。相手側からは何の要求もして来ないし」
E「こういうサイコパス的な犯行では、えてして犯人は何らかの救済措置を与えるものです」
B「救済措置?」
E「ええ。方法は分かりませんが、恐らく何らかの脱出方法を仕掛けていると思うんですよ。それこそ本当に先ほど言ったゲーム感覚ではないんですけど、相手は我々を支配する事によって優越感に浸っていて、我々を掌に躍らせている感覚に酔っているのでないか、と」
D「つまりは私たち十人の生殺与奪を握っているのは自分だ、と」
E「そうです。だからこそ生と与の余地もある、と考えてもおかしくないと思いますが」
C「じゃあ、助かるってのか」
E「相手が遊び半分で無目的な所業に我々が付き合わされているのなら、その可能性は十分あると思います」
H「凄いわね、Eさん。まるで犯人の心理を見抜いているみたい。本当はEさんがこのバカげたイベントの実行犯じゃないの?」
E「よして下さいよ。ただ、簡単な推察と理屈で言っているだけですから。それにしてもこの密室に内部犯がいる事は完全否定できませんがね」
D「やはりまだこの十人の中に犯人がいると?」
E「あくまで可能性の一つです」
G「もう、そんなに疑っていたらキリがないわ」
A「それでも出来る限りは推測を一つ一つ潰していかないと」
B「このまま犯人がだんまりを決め込んでいたらね」
H「確かにこのまま手をこまねいていても仕方ないわ」
G「待って。じゃあ、こういう犯人の目的はどう。私たちを全員疑わせて殺し合いをさせるっていうの」
D「ちょっと止めて下さいよ。そんな恐ろしい話は」
G「だってみんなにナイフを持たせてるのよ。狙いはそういうスプラッターな展開を望んで、キャハキャハ楽しんでみるってのも変態犯なら考えられるわ。じゃなきゃ、いちいちナイフを置いておかないでしょう」
A「なるほど、それも一つの筋かも知れませんね」
B「それこそみんなに殺し合わせて、一人だけの生き残りが脱出できるとか、勝手なルールを作っていたりするかも知れないし」
F「…………」
C「そんなアホな」
B「これもまた一つの推理ですよ。あらゆる角度から考えてみるのは重要です」
E「如何にしても、ゴルディアスの結び目のようにバッサリと判断するのは難しいですね」
I「ゴルディアスの結び目ってどういう意味ですの?」
H「あ、そうだ。私さっきちょっと思いついんたんだけどさ。さっきみんな何となく献血をした記憶があるって言ったじゃない」
A「記憶の曖昧さは個人差がありましたけどね」
H「まあ、とりあえず皆が献血をしたって前提の考えなんだけど、そうだったら腕に注射針の後が残っているんじゃない?」
G「注射針の跡?」
E「つまり……」
H「そ、注射針の跡がある人は被害者で、内部犯として考える限りは犯人じゃないってこと」
F「…………」
D「それじゃ逆に注射の跡が無かったら犯人という意味ですか? それは無茶な考えだ。みんながみんな献血所を経て注射されて連れて来られたという証拠はない。何よりも各人の記憶が覚束なさすぎる」
H「分かってるわよ。あくまでさっきBさんが言った、あらゆる角度で考えてみるって事に乗っかってみてモノを言ってみただけ」
G「でも、あながちそのアイディアは悪くないかも。一回みんなで服の袖を捲って確かめてみましょうよ」
D「私は反対ですね。そんな事をしてヘタに注射の跡が無くて、皆から疑いの目を受けるのは恐いですから。それに変なパニックも起きかねない」
F「…………」
E「確かにDさんの言い分も理知的かつ理性的だ。だが、あくまで参考程度、確認程度に捉えて調べてみる分には問題ないのではないでしょうか」
D「そんなに割り切って出来ますかね。いざ注射の跡が無い人間がいたら他の人らはその人を否が応でも注視すると思いますよ。いや、注射の跡が無い人が一人でなく、複数人だったら、これまた話が変わって来る」
A「うーん、難しい問題だなあ」
F「…………」
B「やはり内部犯という疑いはいったん消した方が良いのかも知れないですね。不安と疑いばかりが冗長するばかりだ」
F「…………」
D「Fさん、大丈夫ですか? さっきから腕を抱えて顔が真っ青ですよ」
F「……わ、わ、私、密室恐怖症なんです」
D「え?」
F「……さ、寒い……もう、どうでも良い。わ、私は早くここから出たい。ああ、そうよ、一人だけが出れるのよ。きっと、そ、そ、そ、そうよ!」
D「Fさん? あ、ちょ、ちょっと! そんなナイフを出しちゃダメですよ!
F「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
A「あっ!」
B「そんなっ!」
C「うぐっ!」
D「止めなさいっ!」
E「ちょ、ちょっと! ダメだ、Fさんっ!」
F「死んじゃえっ!」
G「ああっ!」
H「きゃあっ!」
I「どういう意味ですのぉぉぉぉぉぉっ!」
それは一瞬だった。
パニック状態になったFが隣にいたCをナイフで刺し、そこからは阿鼻叫喚、地獄絵図。それぞれの皆が、お互いをナイフで刺し合い、殺し合い、辺りは血の海。皆は狂乱の中で死を演舞した。
D一人を除いて。
Dはただ一人ナイフを持っていなかったが、何とか必死に「止めろ! 止めるんだ!」と叫び、皆のサバイバル合戦の制止に努めていた。だが、各人はそんなDの言葉も聞かず殺し合いに邁進するだけ。
するとDは部屋の角側に行き、顔を上に傾け僅かにヒビが入った天上へ向かって、「実験は中止だ! 中止! 早く止めに来いっ!」と喚(わめ)いた。そのヒビの中には超小型のカメラが内蔵しており、どうやらDはそれに向かって絶叫しているようだった。
しばらくして、白衣を纏(まと)った如何にも研究員然とした人間が複数人、Dのいる密室にドアが勢いよく開けられ入ってきた。だが、既に室内は死屍累々。凄惨な刺傷、裂傷、斬傷の屍が群をしていて、見事に全員死亡。D以外に生存者はいなかった。入ってきた研究員然とした連中は、その様子を見渡すと直ぐに黙々かつ淡々と死体の山の処理を始めた。
その数人の中の、研究員然とした一人がDに向かって、「主任」と困惑がちに話しかけると、主任と呼ばれたDは語気を荒らげて鬼瓦の形相をしてその研究員に向かって罵声を浴びせた。
主任「だから私は言ったんだ! この実験自体が危ういと言って反対したろ、サノバビッチ!」
研究員「ですが政府からの直々の指令でしたので……」
主任「科技庁の極秘外局の我々には関係ない事案だ。しかもこんな心理学じみた実験。科学的じゃないにも程がある。せめてナイフは模造品にすべきだったんだ」
研究員「しかし、イミテーションにすると、すぐに他のサンプルに気づかれると危惧されたので……いや、勿論、それも上からの指令に従ったまでですけど」
主任「くそっ! ファック! 何がアイヒマン・テストやスタンフォード監獄実験に比肩するスタディだっ! 『ナイフを持つ九人に対して、ナイフを持たない一人の方が安全性は高い』なんていう安っぽいテーマの実験にしてはリスキー過ぎたんだっ!」
研究員「ただ、サンプルの中に密室恐怖症の人間が混じっていたというのは想定外でありましたから」
主任「何だ、君は? 上の方のカタを持つのかね」
研究員「い、いえ、決してそんな訳では……」
主任「ま、良い。全部は全部、お上からの指令に従った訳だから、我々の進行や過程に不備はない。全ての責任は政府や科技庁にある。我々は悪夢を見ただけだ。そうだな?」
研究員「は、はい」
主任「よし。上の連中が何を考えてこんな事を思いついたかは知らんが、我々はこれ以上深く詮索しないとする。もう何もかもが終了だ。このプロジェクトは私のラボでは抹消。イイな、何もかも終わったんだよ。何もかもが無かった事なんだよ。以上っ!」
主任と呼ばれたDはそう言うと、天井の超小型カメラに顔を向けて「ザッツ・オール!」と強調するように叫び、また、超小型カメラの映像もプツリと消えた。
了
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