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金魚鉢
眼鏡を落とした。黒縁に、丸い形のレンズが嵌め込まれた僕の眼鏡。使ってきた年月を思わせるレンズの傷と、右側だけが緩くなった蝶番に愛着が湧き、新調せずに長年使い続けている。
オフィスの冷たい床にからからと軽い音を立てながらそれは転がった。忙しなく動き回る他の社員は、落ちた眼鏡には目もくれず書類の整理やパソコンのキーボードに夢中になっている。あるいは、気づかないふりをしているだけだろうか。
僕は業務用の椅子を少し後ろに転がし、重たい体を持ち上げて歩き、眼鏡を拾った。その横を、雨で濡れた黒い革のローファーが迷惑そうな顔で通り過ぎて行く。カツカツ、と小気味良くも憂鬱なその音が、時々雨の水分によって靴底が滑る音と共にオフィスに充満している。
僕は袖先のほつれた黒いジャケットで眼鏡の汚れを拭き、それを掛け直した。正面にいる若い女性社員が非難するような目線でちらちらとこちらを覗いていることに気が付き、なんとなくバツが悪く目を逸らした。すっかり日焼けして黄色くなったキーボードを叩き、先程の仕事の続きをする。パソコンの画面には獲得した顧客のデータが堅苦しく表示されていた。
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