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3.
子供が生まれる前に全てを済ませたかった。
僕は、ケアマネージャーと区役所の担当の人と積極的に話し合い、迅速に、チヨちゃんの知的障害者支援施設への入所の手続きを進めた。
「けんたくん、山だよ」
「うん、山だよ。これから、チヨちゃんの住む家に行くんだ」
「住むとこは、いえだよ」
チヨちゃんを後ろの座席に乗せて、僕は狭い山道を車で登っていた。昨今は、街中の障害者支援施設も増えているが、チヨちゃんが入所する施設は、山の奥底に聳え立っていた。
「さあ……ついたよ」
チヨちゃんを車から下ろし、正門に駐在している警備員に敷地内に入れてもらう。シックな色合いのブロックを積んだような施設は、ひどく無機質にみえた。
施設から、パタパタと職員と思われる初老の男性が駆けつけて来た。
「知世乃さんと、ご家族さんですね。遠いところまでご苦労様です。お部屋までご案内いたします」
「はい」
施設の内部は、見学した時と変わらず、画一的で気が滅入るつくりだった。廊下には、すれ違った時に犯人でも見つけたかのように指差してくるヒト、車椅子に深く埋もれながらギョロギョロと爬虫類のような目つきで見つめてくるヒト、壁に向かって奇妙な表情をしたかと思うと急に笑い転げるヒトなど様々なヒトがいた。
廊下の端の方の部屋がチヨちゃんに与えられた部屋だった。小綺麗な木目調の部屋だ。
「自由に模様替えして構いません」
荷物を部屋に下ろす。チヨちゃんの元々の部屋から適当に持ってきたが、どう置くかはチヨちゃんに任せることにした。
そのまま職員の人に、入所における必要な書類をまとめて提出した。やるべきことは全て済ませた。僕は、職員に頭を下げる。
「それでは、これから叔母をよろしくお願いいたします」
「はい、時々様子を見に来てやってください。きっと寂しいでしょうから」
ここには同じようなヒト達がいるから大丈夫でしょう、とは言わなかった。
だが事実、外の世界のように、虐めてくる人も、嫌な顔をする人もいない。職員の人達も優しそうだ。チヨちゃんにとっては、この箱庭のような場所で大人しくしているのがいいことなのだ……。
「チヨちゃん」
鼻の頭を掻くチヨちゃんに声をかける。
「なに」
「これから、ここがチヨちゃんの住む家になるんだ。職員さんのいうことをよく聞くんだよ」
「家はお米屋さんのとなりだよ」
「ううん、それは昔の家だね。チヨちゃんは、これから、ここに住むんだよ」
「あたしのかあさん、いないよ」
「うん、もうおばあちゃんはいないんだ」
「あたし、しらない」
「知らなくても、チヨちゃんは、ここで生きていくんだよ」
チヨちゃんは、返事をせず、ブツブツと独り言を始めた。
僕は、職員に向き直り、ふたたび頭を下げ、出口へ向かった。
彼女が、施設から出ることはもうないだろう。誰からも望まれてもいない。僕を含めて。
施設の玄関を出ると、鬱蒼とした森林の包み込んでくるような匂いが鼻をついた。僕は、半ば逃げるように、早歩きで正門へ向かった。
その時ーー。
「けんたくん」
後ろから投げかけられた声に驚いて振り向く。
チヨちゃんがいた。
いつものようにのしのしとした歩き方で、立ち止まった僕のところに真っ直ぐに歩いてきた。
「けんたくん、ありがとう」
「えっ」
「じゃあね」
チヨちゃんはそれだけ言うと、踵を返し、軒先で待ち構えていた職員に連れられて、無機質なブロックの中に吸い込まれていった。
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