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 でこぼことした帰りの山道。僕は、運転する車の揺れを感じながら、チヨちゃんとの最後の会話を思い返していた。  チヨちゃんは感謝の言葉を述べたが、あれが本人の意思だったとは思えない。施設の職員に促されたか、祖母の言いつけが頭の片隅に残されていたかどうかだろう。条件反射のようなものだ。意味なんて分かってるはずがないのだ。  そもそも何に対して、ありがとうと言ったのだろう。新しい家に連れてきてくれて?世話を焼いてくれて?姥捨山のように、置いてきただけなのに。  そう、そんなことも分からないのだ、チヨちゃんには。人の言葉の裏にある打算的な後ろ暗さなど分かるはずもないのだ。  ぐるぐると回る思考の中、僕は、チヨちゃんとの別れ際に、はじめて視線を交わしたことに、はたと気付いた。今まで面と向かって眼を見たことなど無かった。落ち窪んで垂れ下がった瞼の奥の、透明で透き通ったあの眼を。 『けんたくん、ありがとう』 「ッーー」  僕は、脇道に車を停めた。より狭くなった道を、後から来た後続車がクラクションを鳴らしながら追い抜いていった。  頭の内の火照りを覚ますかのように、両手で顔を覆った。  仕方がないじゃないか……。僕にだって生活があるのだ。妻と子供に迷惑をかけることなどできない。  誰に聞かれる訳でもないのに、言い訳ばかりが頭に浮かんできた。  聞いているとしたら、神さまくらいのものだろう。  神さま……神さま……。  わたしは、醜い人間です。  いくら言い訳を重ねても、僕自身の保身のためだということは、自分が一番分かっています。  でも、あなたにも責任があるはずです。  どうして、どうして、チヨちゃんをこの世界からつまはじきにするような真似をしたのです。どうして人並みの知性をお与えにならなかったのです。  そうすれば、おばあちゃんだって悲しまずに済んだんです。僕だって、こんな虚しさとやるせなさに心を揺さぶられることなど無かったはずなのです。  知世乃。その名に反して、彼女は、世界の理を何一つ知らず、一生を終えることでしょう。甘ったるい優しさに包まれた菓子箱のようなあの場所で、ヒトを人足らしめる蓄積ーー身悶えるような幸福も、心打ちひしがれるような悲しみも、苦難を乗り越えた先の達成も、何も感じず、獣のように汚れを知らない眼のまま、埋もれていくことでしょう。  神さま。どうか、どうか、あの世があるというのなら。もしチヨちゃんが亡くなったら、チヨちゃんに知性を与えて、おばあちゃんと会わせてやってください。あなたのお膝元で、仲良くお話しをさせてあげてください。 そうすれば、きっとチヨちゃんはおばあちゃんに言ってくれるはずです。  産んでくれてありがとう、って。  でももしも。  もしも……言わなかったとしたならばーー。  僕は、シートベルトを外し、運転席にうずくまった。  窓の外から聞こえる生命力にあふれた木々のざわめきが、虚しく僕の胸を打った。
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