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僕のミッション
悪魔とは、地面からも真実からも十センチ浮いている生き物だ。どこにでもいる。
「ただいま」
「遅かったな」
だから雄也の家に悪魔が住み着いていても不思議なことはない。黒いロングコートに黒いシルクハットを被った、紳士のようにも見える背の高い悪魔。やはり、床から十センチ浮いている。
「事故物件にしては家賃が高いよなあ」
「悪魔はノーカウントだからな」
雄也は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ローテーブルの前に腰かけた。悪魔は床と十センチの距離を保ったまま雄也を追いかける。プシュ、と缶ビールの開く音がした。
「なあ、そろそろ俺と契約を交わさないか?」
「無理だよ。僕には人生のミッションがある」
「俺のミッションはお構いなしか」
「他の人を勧誘してよ」
悪魔が雄也との契約にこだわるのは理由がある。
そもそも悪魔は雄也が呼び出したのではない。雄也の前にこの部屋に住んでいた人が召喚した。しかし本当に悪魔を呼んでしまったショックで絶命してしまい、悪魔は召喚され損のままこの部屋から出られずにいる。
次に入居したのが雄也だ。
「人間と契約を結ぶまで、召喚された場所から出られないんだ」
「一旦帰れないの?」
「ノルマがあるから帰れない」
「何のノルマ?」
「契約のノルマだ。このまま帰ったら契約率が悪くなるだろう」
「どういうこと?」
「基準は一召喚に対して一契約だ。一召喚に対してゼロ契約になると減点される」
「モーツァルトのプロポーズみたいなものかな」
「そうなのか?」
そうだよ、と雄也は言った。
「でも契約はできないんだ。僕には人生のミッションがあるから」
「俺のミッションはお前と契約を交わすことだ」
「困ったなあ。ヘイSiri、近場のエクソシストを探して」
「Siriを使役するな、契約して俺を使役しろ」
「一件アリマス」
「あるのかよ」
「呼んでみようか」
「呼ぶな」
しかし何かがおかしい。同じ部屋で日々を過ごしてきた悪魔は、雄也のある異変に気づく。
「お前、今日はやけに喋るな」
「そうかな?」
「何かあったのか」
「どうだろう」
「俺と契約すればお前の望みは何でも叶う。悩み事におさらばできるぞ」
さあどうだ、と悪魔は両腕を広げた。雄也はビールを一口飲み、長い長い吐息を漏らす。
「それは良いね。契約しようか」
腕を広げたまま、悪魔は固くなった。眉間に皺を寄せ、訝しげな目で雄也を見る。
「どういう風の吹き回しだ」
「契約してあげる」
「そんなに深い悩みなのか」
「契約しよう」
「人生のミッションとやらはどうした」
「契約してよ」
「長期戦を覚悟したところなんだぞ」
「こういうのは僕の気が変わる前に進めるんじゃないの?」
悪魔はロングコートの内ポケットを探り、紙の束を取り出した。
「読め。契約書だ」
「どこにサインすれば良いの?」
「バカ、契約書はサインの前に隅々まで読むもんだ」
「全部読むなんて無理だよ、何ページあるの」
「脳が足らん主人め。まあ、大事なのは第六六六条だけだな」
「第六六六条……甲の死後、乙は速やかに甲の魂を回収する」
「甲がお前、乙が俺だ」
「名前で書けば良いのに」
「契約書はそういうもんだろ」
「まるでベートーヴェンの引っ越しじゃないか」
「そうなのか?」
そうだよ、と雄也は言った。
「内容が分かったらここに住所と名前を書け」
「はいはい……はい、書いたよ」
「ここに印鑑だ」
「どこにしまったかな」
雄也は立ち上がって机の小さな引き出しを漁る。悪魔が「ハイは一回で良い」と言ったが、「はいはい」と受け流した。目的のものを見つけると、ローテーブルの前に戻って腰を落とす。テーブルに印鑑と朱肉を置いた。そして悪魔を仰ぎ見る。
「今日、彼女と別れたんだ。僕はまだ好きなんだけど」
「望みは復縁か、お安い御用だ」
「僕の仕事が不安定だから結婚はできないって」
「仕事なんてしなくて良い。お前が望めば金はいくらでも手に入る」
それは素晴らしいね、と雄也は言った。朱肉の蓋を開けて印鑑を押し付ける。
その印鑑を、悪魔の額に叩きつけた。
「何をする! 印鑑は契約書だろう」
「これで合ってるんだ」
「なんだと」
突然、悪魔は胸を押さえて倒れた。苦しそうに顔を歪め、のたうち回る。沸騰したかのように身体から湯気が出て、その熱は雄也にもやんわりと届いた。
「これで合ってるんだよ」
悪魔は何か言おうとしているが声にならない。湯気が激しくなり、手足の先から灰になっていく。あっという間に胴も頭も灰になり、こんもりと床に山を作った。
雄也は悪魔だったものに語りかける。
「近場のエクソシストは僕なんだ」
そのあとは無言で灰の山を見つめていた。女の背中を見送るのと同じ目で。
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