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春が先か、花が先か。
午後六時。
三月はまだ日が短く、六時にはすっかり暗くなっている。
高い植木の続く並木道は春の匂いを漂わせつつ、風に揺れていた。
その下をゆっくりと歩きながら、一つ呟く。
「春が先か、花が先か」
帰り道、ふと見上げた桜並木に足を止める。
もう蕾がいくつも膨らんでいて、今にも咲きたがっているように見えた。
「大学、出会い多そうだなあ」
彼女の事だから、どこかのサークルへ入るなり私を誘ってくるのだろう。間違いなく出会いの場を設けるために。
「楽しそうだけど……」
ぼんやりしていたら突風に髪がばさばさと煽られていく。
次の瞬間、ゆるくかぶっていたバケットがふわり、と頭から離れた。
「あ――」
反射的に添えた手は一瞬遅く、バケットハットは風に飛ばされてアスファルトを転がっていく。
それを追いかけようと足が動かしかけて、止まった。
一人の男性が、そっと私の帽子を取り上げたからだ。
無言で帽子を拾った彼は、それを軽くはたきながらこちらに歩いてくる。
茶色く染められたくせ毛の髪が風に揺れ、同時に耳についた銀のイヤーカフが街灯の光を反射する。
近づけば近づくほど、彼のスタイルの良さがわかるようで、気付けば胸が高鳴りを抑えられなくなっていた。
「――これ、あなたのですよね?」
見た目から想像するよりもずっと低く、でも優しい声だった。
頷けば、彼はそれを手渡さず、頭に乗せた。
「汚れなくてよかった」
ふわり、と香る爽やかな柑橘系の匂い。香水だろうか。
「あ、ありがとう、ございます」
言葉に詰まらせながら言うと、彼は少し面白そうにクスっと笑った。
その笑顔が、たまらなく輝いて見えた。
自分でもダメだとわかっているのに。
「それじゃ」
「あ、あの」
気付けば彼の上着の袖を掴んでいた。
彼がきょとん、とした顔で振り返る。瞬間また、心臓が痛いくらいに跳ねた。
でもここで、後戻りはできなかったんだ。
「よ、よかったら連絡先、教えてくれませんか……」
彼はもちろん嫌だと言った。とても綺麗な笑顔でそう言った。
だけど私はもう一つだけ言ったのだ。
「見かけたらまた、出会いに行きます」
瞬間、花が咲いたように彼が笑った。心底面白そうに腹を抱えて笑っていた。
春が先か、花が先か。
きっと今の私は――。
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