プロローグ

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プロローグ

“簡単すぎる人生に、生きる価値などない。” 大昔にそんな言葉を残した偉人がいたそうだが、おそらくは恵まれた人生を歩んできたのだろう。 少なくとも、恵まれない人生を歩んで来た俺にとっては、簡単すぎる人生を送ってみたかった。 ――三十代前半。無職。学歴なし。貯金なし。友人なし。恋人なし。 幼い頃に事故で家族すら失ったそんな俺の人生を、ゲームの難易度で表すなら、明らかにハードモード・・・、いや確実にナイトメアモードだろう。 普通の感性を持った者なら、とっくに匙を投げている。 そんなクソみたいな人生でも、俺は自らの命を投げ捨てるでもなく、犯罪に手を染めるでもなく、艱難辛苦に生きていた。 ――いつかきっといい事がある。そう信じて。 なのに、この仕打ちはあまりにも酷すぎる。 運がない。いや、きっと神に見放されているに違いない。 そう思わざる負えない程、佐久間誠(三十二歳)はついてなかった。 「――いってぇ」 誠は、冷たいアスファルトの上に転がっていた。 ありえない方向に曲がった右手首。体中にはいくつもの擦り傷が出来ていて、鈍い痛みに支配されている。 唇は切れているのか、口内に鉄の味が滲んでいた。頭でも打ったのか、思考もぼんやりとしている。 倒れたバイクの車輪はゆっくりと回っていて、胴体のエンジン部分からは黒い油が滴っていた。 ――それは馴染みの定食屋で、たらふく夕飯をかっさらった帰り道の事だった。 長年愛用しているバイクで、誠は帰り道を急いでいた。 時刻は夜の十七時を過ぎていた。その日の気温はマイナス二度。凍てついた空気が肌を刺し、寒さを通り越してもはや痛い。 街はどこも凍り付いている。 誠は閑静な住宅街の中を、走っていた。バイクのエンジン音がやけに響く。 普段なら大通りを通って家路につくのだが、今日は近道を選んだ。 一刻も早くエアコンの効いた部屋で温まりたかった。思えば寒さで思考が眩んでしまったのが原因だった。 凍結ぎみの路上を走っていると、突然一匹の黒猫が塀から飛び出してきた。誠は猫を避けようと、ハンドルを大きく切った。そしてそのまま大きくスリップ。バランスを失い、気が付けばバイクは転倒。 体は宙を舞い、地面に強く叩きつけられ、投げられた小石のようにごろごろと転がった。 ――そして現在に至る。 誠は自分の運のなさを悔やんでいた。 (猫は猫でも黒猫って) ついてなさすぎる。不吉すぎる。 まるで誠のこれから先の運命を予言しているかのようだった。 ちなみに命拾いした黒猫は、塀の上で呑気に毛繕いしている。 「誰か・・・救急車」 痛みに堪えて、必死の想いで吐き出した言葉は、真っ白な吐息と一緒に宙に消える。  この辺は人通りが少ない。たまにランニングしているおっちゃんと、犬の散歩をしているお姉さんが通るくらいだ。 徐々に霞む視界。ぼんやりと霧がかかったように陰る思考。 ふわふわして心地いい睡魔が、誠を襲う。 誠は恐怖と焦りを感じていた。 やばい、やばい、やばい。 このまま眠ったら死ぬかもしれない。いや、確実に死ぬ。 「誰・・・か」 シンッと静まり返った周囲に、虫の息が響く。 人の気配は全く感じない。まるで世界が滅んだようだ。 あ、駄目だ。これ完全に詰んだかもしれん。 脳内を過るのは“死”という単語だった。 堰を切ったように、過去の記憶が脳内に再生する。これが走馬灯か、と誠は妙に感心した。 ――クソみたいな人生だった。何一つ楽しい事のない人生だった。 幼い頃に両親を交通事故で亡くしたのが、この恵まれない人生のそもそもの発端だった。 誰が面倒見るのか。誰が養育費を払うのか。 そんな大人の事情で、誰もが誠を厄介者のように扱って、責任を押し付け合った。 誠は親戚の家を転々とせざる負えなくなったわけだが・・・当然グレた。中学に進んだ時には、不良の道を突っ走っていた。 思えば、非行の道に走る事で自分の心を守っていたのだと思う。 誠が高校生の時だった。当時世話になっていた親戚のじじいと喧嘩して、家を飛び出した。しかし学歴がない不良がまともな職につけるわけもなく、アルバイトを転々。結局三十を過ぎても、居酒屋店員まま。正社員歴なし。 けれどさらに不幸な事が誠を襲った。丁度三日前の出来事だった。 働いてる居酒屋が経営悪化とかなんとかで、突然閉店。そして呆気なく解雇。 貯金とてなく、今ではその日食う飯にありつければいい状態。 もし来世というものがあるなら、今度はもう少しまともな人生を送れるだろうか。 誠は全てを諦めて、瞼を閉じようとした。 ――その時だった。 どんよりとした曇り空から白い羽がぱらぱらと降ってきた。 最初は雪だろうと思っていたが、宙に消える事なく、ふわりと地面に落ちる。 小雨のように次々と降ってくる白い羽は、誠の周囲を彩った。 誠は思わず曇天に目を凝らした。 すると厚い雲を裂いて、何かが落ちてきた。 白い、白い何かが。 (鳥?いや、違う。あれは・・・) ――人間だ。 しかも、大きな白い翼を生やした。 まるで某映画の某シーンを見ているようだった。 ただ某映画と違うのは、天から降ってきたのは女の子ではなく、青年だったことだ。 翼の生やした青年、もとい天使は、血だらけで横たわっている誠の傍にふわりと降り立った。 牛乳に墨汁を加えたようなにくすんだ銀色の髪は、まっすぐ顎下まで伸びている。 夏の青空のような淡い瑠璃色の瞳は、涼しげながらどこか柔らかい。 透き通るように真っ白な滑らかな肌は、まるで陶器のようだ。 海外のスーパーモデル顔負けの美しい目鼻立ちは、思わず男の俺でも見惚れてしまう程だった。 不意に天使と視線が絡み合った。 「佐久間誠さんですね。この度は」 天使はもごもごと口を動かして何か言っている。 おかしいな。全然聞こえない。 まるで水の中に潜っているみたいだ。 誠は眠さの限界だった。必死に何かを訴えている青年を尻目に、吸い込まれるような睡魔に抗えず、誠は瞼を閉じた。 ――そこで誠の意識は途絶えた。 それからの事はよく覚えていない。 何か夢を見ていた気もするし、そのまま意識がなかったような気もする。 とりあえず次に目を覚ましたのは、見知らぬ部屋のベッドの上だった。
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