天使

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天使

真っ白な天井。白い壁。白い床。 鼻をつく強い消毒液の匂い。 (あれ?俺生きてる?) 本当に?幽霊になったとかじゃなく? 試しに頬をつねってみる。 大丈夫だ。ちゃんと痛い。ちゃんと生きてる。 誠は重たい上体をゆっくりと起こし、辺りを見渡した。 ――誠は部屋の中央に位置する白いベッドの上に居た。 いつの間にか病衣に着替えられている。 頬、胸、腹、太もも、足首。体の至る所にあった挫傷は、清潔なガーゼに覆われていた。 ありえない方向に曲がっていた誠の右手首は、厚いギブスの中に収められている。 息が吸えない程の激痛も嘘のように消えていた。 ここは何処だろう。どっかの病院? (俺は助かったのか) あの絶望的な状況で。 誰かがたまたま通りかかって、救急車を呼んでくれたとか? それならなんてラッキーだろう。誠の不運な人生の中で、唯一の幸運と呼べるかも知れなかった。 (――まずは目を覚ました事を知らせないとだよな) 誠は枕元にあるナースコールに手を伸ばした。 オレンジ色のボタンを押すと、トゥルルルという電子音が流れる。三コール程響いた後、優しげな女性の声が、機械から響いた。 「はーい」 「佐久間誠です。今目覚ましたんすけど・・・」 「ただいま伺います。お部屋でお待ちください」 「分かりました」 プツリと無線は切れる。 どうやらこれからナースが病室に来てくれるらしい。 そこで状況説明云々が行われるのだろう。 誠は再びベッドに横たわった。 静寂が病室を支配する。 天井を見上げながら、あの夜の出来事を思い出した。 ――改めて状況整理をしようと思う。 あの日、突然車道に飛び出してきた黒猫を避けようとして、大きくスリップ。そのままバイクは転倒し、俺は大けがを負った。 薄れゆく意識の中、翼を生やした天使が空から降ってきて、俺の傍に降り立つ。そして(何故俺の名前を知っているのかは知らないが)俺の名を呼んだ。 天使は何か必死に訴えかけていたが、迫りくる猛烈な睡魔に勝てず、そのまま暗闇に意識を手放した。 そして今に至るわけだが・・・。 どうやら俺は無事病院に担ぎ込まれ、九死に一生を得たわけだった。 誠は意識を手放す前に見た、青年を思い出していた。 (綺麗だったなぁ) 絶世の美男子という言葉がよく似合う。 三十二年間という、短いのか長いのかよく分からない人生の中で、圧倒的一位を飾る程美しい青年だった。 南国の海のような瞳が今でも忘れられない。 (もう一度俺の前に現れてくれねぇかな。そんでこのクソつまらない人生を変えてくんねぇかな) でもきっとあれは幻覚だ。誠の脳が作り上げた幻覚に違いない。 天使なんて、そんな非現実的な存在いるわけがない。 ――そんなに世の中甘くない。 「・・・入院費ってどれくらいかかんのかなぁ」 誠は遠い目をしながら、小さく呟いた。 日数にもよるだろうが、ここ数日で退院出来る気もしない。 ウン十万はくだらない気がする。 ここを出たらまた馬車馬のように働かなくてはいけない。 今の貯金は数千円。無理だ。到底払らえない。 誠は土の中に埋もれていくような、そんな気持ちになった。 (まぁ、でも、死ぬよりはましか。何やともあれ、助かって良かった。うん、そう思う事にしよう) 「それにしても遅いな看護師さん」 忙しいのだろうか。 早く来てくれないと、また寝てしまう。 おそらく麻酔でも効いてるのだろう。やけに眠い。 誠は眠気を飛ばすために、大きな欠伸をしようとしたその時だった――。 「――やれやれ。やっと起きましたか」 先程まで記憶に登場していた天使がぬっと顔を出した。 あの夜と同じように、墨を垂らしたような墨汁色の瞳と、宝石のように綺麗な藍色の瞳が交差する。 「・・・・・」 突然の事で、誠の脳内はフリーズする。 「待ちくたびれましたよ。まさか三日も眠り続けるなんて。死んだかと思いました」 誠は勢いよく上体を起こした。布団がバサリと床に落ちる。 確かに、あの夜に見た天使だ。 背中には立派な翼が生えている。 誠は何度も瞬きを繰り返した。 ・・・消えない。 次に何度も瞼を擦った。 それでも消えない。 まるで幽霊でも見たかのような誠の態度に、天使はムッとした表情を浮かべた。 「そんなに驚かなくてもいいじゃないですか。もしかして忘れちゃいました?一度お会いしたのに」 やれやれと言ったように天使は肩を竦めた。 「これだから人間は。僕らは一度見たものは、死ぬまで忘れないのに」 いやいや。忘れるわけないだろう。ちゃんと記憶の片隅で眠っていて、今でも呼び起こせば鮮明に思い起こされる。それくらい天使が降り立った光景は、神秘的で美しかった。 「・・・本物?」 「む。疑ってるんですか?」 「・・・そりゃ、疑うだろう」 「じゃあ、触ってみますか?」 そう言って、天使はばさりと翼を広げた。 広げた際に抜け落ちた羽が、ひらりと床に落ちる。 誠は、そぉーと天使の羽を撫でた。 まるで猫の毛のようだ。温かく、一本一本が柔らかい。 この羽を布団にして、その上で眠ったらさぞかし気持ちいいだろう。 「ね?ちゃんと本物でしょ?」 「...ああ」 確かに本物の羽だ。ちゃんと背中から生えている。作り物じゃない。 誠は息を吐くように、フッと笑った。 悪い夢だ。きっとそうだ。そうに違いない。 誠は深呼吸するように肺を大きく膨らませた。 そしてそのままーー。 「うわあああああああああ」 ――病棟中に響くくらいの大声で、叫んだ。 天使が驚いたように、びくりと肩を跳ねさせる。 「ななななな、なんなんですか!!びっくりしたじゃないですか」 「びっくりしたのは、こっちだわ!!」 眠気なんて一気に覚めた。 誠は酷く混乱していた。 目の前に広がる現実を受け止める事が出来ない。 あの夜、頭を強く打った事で、幻覚でも見えるようになってしまったのだろうか。 それにしてもあまりにも鮮明な幻覚だ。 誠の中で、天使=幻覚で結論付けられていた。 パタパタと、駆け寄るような小さな足音が聞こえる。 それは徐々に大きくなり、しばらくして部屋の前で止まった。 「何事ですか!?」 勢いよく開かれる病室の扉。 白衣を身に纏った四十代くらいのナースが、血相を変えた様子で、病室の中に足を踏み入れた。 誠は天使を指差した。 「病室の中に不審者が」 「不審者?」 ベテランの風格を漂わせているナースは、誠を指差した先を見た。 病室を支配する、不思議な沈黙。 ナースは何度も誠の顔と、天使の顔を交互に見た。 「ええっと」 そしてナースは言いにくそうに言い淀んだ。 「――何もいませんけど?」
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