1人が本棚に入れています
本棚に追加
天使
真っ白な天井。白い壁。白い床。
鼻をつく強い消毒液の匂い。
(あれ?俺生きてる?)
本当に?幽霊になったとかじゃなく?
試しに頬をつねってみる。
大丈夫だ。ちゃんと痛い。ちゃんと生きてる。
誠は重たい上体をゆっくりと起こし、辺りを見渡した。
――誠は部屋の中央に位置する白いベッドの上に居た。
いつの間にか病衣に着替えられている。
頬、胸、腹、太もも、足首。体の至る所にあった挫傷は、清潔なガーゼに覆われていた。
ありえない方向に曲がっていた誠の右手首は、厚いギブスの中に収められている。
息が吸えない程の激痛も嘘のように消えていた。
ここは何処だろう。どっかの病院?
(俺は助かったのか)
あの絶望的な状況で。
誰かがたまたま通りかかって、救急車を呼んでくれたとか?
それならなんてラッキーだろう。誠の不運な人生の中で、唯一の幸運と呼べるかも知れなかった。
(――まずは目を覚ました事を知らせないとだよな)
誠は枕元にあるナースコールに手を伸ばした。
オレンジ色のボタンを押すと、トゥルルルという電子音が流れる。三コール程響いた後、優しげな女性の声が、機械から響いた。
「はーい」
「佐久間誠です。今目覚ましたんすけど・・・」
「ただいま伺います。お部屋でお待ちください」
「分かりました」
プツリと無線は切れる。
どうやらこれからナースが病室に来てくれるらしい。
そこで状況説明云々が行われるのだろう。
誠は再びベッドに横たわった。
静寂が病室を支配する。
天井を見上げながら、あの夜の出来事を思い出した。
――改めて状況整理をしようと思う。
あの日、突然車道に飛び出してきた黒猫を避けようとして、大きくスリップ。そのままバイクは転倒し、俺は大けがを負った。
薄れゆく意識の中、翼を生やした天使が空から降ってきて、俺の傍に降り立つ。そして(何故俺の名前を知っているのかは知らないが)俺の名を呼んだ。
天使は何か必死に訴えかけていたが、迫りくる猛烈な睡魔に勝てず、そのまま暗闇に意識を手放した。
そして今に至るわけだが・・・。
どうやら俺は無事病院に担ぎ込まれ、九死に一生を得たわけだった。
誠は意識を手放す前に見た、青年を思い出していた。
(綺麗だったなぁ)
絶世の美男子という言葉がよく似合う。
三十二年間という、短いのか長いのかよく分からない人生の中で、圧倒的一位を飾る程美しい青年だった。
南国の海のような瞳が今でも忘れられない。
(もう一度俺の前に現れてくれねぇかな。そんでこのクソつまらない人生を変えてくんねぇかな)
でもきっとあれは幻覚だ。誠の脳が作り上げた幻覚に違いない。
天使なんて、そんな非現実的な存在いるわけがない。
――そんなに世の中甘くない。
「・・・入院費ってどれくらいかかんのかなぁ」
誠は遠い目をしながら、小さく呟いた。
日数にもよるだろうが、ここ数日で退院出来る気もしない。
ウン十万はくだらない気がする。
ここを出たらまた馬車馬のように働かなくてはいけない。
今の貯金は数千円。無理だ。到底払らえない。
誠は土の中に埋もれていくような、そんな気持ちになった。
(まぁ、でも、死ぬよりはましか。何やともあれ、助かって良かった。うん、そう思う事にしよう)
「それにしても遅いな看護師さん」
忙しいのだろうか。
早く来てくれないと、また寝てしまう。
おそらく麻酔でも効いてるのだろう。やけに眠い。
誠は眠気を飛ばすために、大きな欠伸をしようとしたその時だった――。
「――やれやれ。やっと起きましたか」
先程まで記憶に登場していた天使がぬっと顔を出した。
あの夜と同じように、墨を垂らしたような墨汁色の瞳と、宝石のように綺麗な藍色の瞳が交差する。
「・・・・・」
突然の事で、誠の脳内はフリーズする。
「待ちくたびれましたよ。まさか三日も眠り続けるなんて。死んだかと思いました」
誠は勢いよく上体を起こした。布団がバサリと床に落ちる。
確かに、あの夜に見た天使だ。
背中には立派な翼が生えている。
誠は何度も瞬きを繰り返した。
・・・消えない。
次に何度も瞼を擦った。
それでも消えない。
まるで幽霊でも見たかのような誠の態度に、天使はムッとした表情を浮かべた。
「そんなに驚かなくてもいいじゃないですか。もしかして忘れちゃいました?一度お会いしたのに」
やれやれと言ったように天使は肩を竦めた。
「これだから人間は。僕らは一度見たものは、死ぬまで忘れないのに」
いやいや。忘れるわけないだろう。ちゃんと記憶の片隅で眠っていて、今でも呼び起こせば鮮明に思い起こされる。それくらい天使が降り立った光景は、神秘的で美しかった。
「・・・本物?」
「む。疑ってるんですか?」
「・・・そりゃ、疑うだろう」
「じゃあ、触ってみますか?」
そう言って、天使はばさりと翼を広げた。
広げた際に抜け落ちた羽が、ひらりと床に落ちる。
誠は、そぉーと天使の羽を撫でた。
まるで猫の毛のようだ。温かく、一本一本が柔らかい。
この羽を布団にして、その上で眠ったらさぞかし気持ちいいだろう。
「ね?ちゃんと本物でしょ?」
「...ああ」
確かに本物の羽だ。ちゃんと背中から生えている。作り物じゃない。
誠は息を吐くように、フッと笑った。
悪い夢だ。きっとそうだ。そうに違いない。
誠は深呼吸するように肺を大きく膨らませた。
そしてそのままーー。
「うわあああああああああ」
――病棟中に響くくらいの大声で、叫んだ。
天使が驚いたように、びくりと肩を跳ねさせる。
「ななななな、なんなんですか!!びっくりしたじゃないですか」
「びっくりしたのは、こっちだわ!!」
眠気なんて一気に覚めた。
誠は酷く混乱していた。
目の前に広がる現実を受け止める事が出来ない。
あの夜、頭を強く打った事で、幻覚でも見えるようになってしまったのだろうか。
それにしてもあまりにも鮮明な幻覚だ。
誠の中で、天使=幻覚で結論付けられていた。
パタパタと、駆け寄るような小さな足音が聞こえる。
それは徐々に大きくなり、しばらくして部屋の前で止まった。
「何事ですか!?」
勢いよく開かれる病室の扉。
白衣を身に纏った四十代くらいのナースが、血相を変えた様子で、病室の中に足を踏み入れた。
誠は天使を指差した。
「病室の中に不審者が」
「不審者?」
ベテランの風格を漂わせているナースは、誠を指差した先を見た。
病室を支配する、不思議な沈黙。
ナースは何度も誠の顔と、天使の顔を交互に見た。
「ええっと」
そしてナースは言いにくそうに言い淀んだ。
「――何もいませんけど?」
最初のコメントを投稿しよう!