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対価
「だから本物だって言ってるじゃないですか。信じられない気持ちも分かりますが、そろそろ信じてくださいよ」
天使は病院食のゼリーを口内に掻き込みながら、言った。
献立は白米、玉葱の味噌汁、厚焼き玉子、キノコのサラダ、アセロラゼリーだ。余程美味しいのか、ほぼほぼ天使が平らげてしまった。
昼飯にありつけていない誠のお腹がぐうっと鳴る。
「・・・仮にお前が天使だとして、俺に何の用だ?」
「あ、命の恩人にそんな口叩いていいんですかー?」
この天使、なんかうざい。
「命の恩人・・・?」
「――あの夜、瀕死の貴方を助けようとして、救急車を呼んだのはこの僕です」
「・・・マジ?」
誠の目が大きく見開かれる。
なんと天使は命の恩人だった。
天使が救急車を呼ぶ。中々にシュールな光景だ。
というかどうやって救急車を呼んだのだろう。人の目に姿は映らないはずだし、声も聞こえないはずなのに。
もしかしてテレパシーを使ったとか?
「・・・どうやって救急車を呼んだんだ?」
誠が尋ねると、天使は得意げに言った。
「貴方のすまーとふぉんとやらを借りたんです。」
「スマートフォン?」
誠はサイドテーブルの上に置いてある、古びたスマホを見た。
長年愛用しているそれは、画面にヒビが入っていたり、装飾が剥げていたりと、ボロボロだ。そろそろ買い替え時なのは分かっているが、金がない。
「確かに僕は普通の人には見えない。でも波長を合わせれば、声くらい聞かせる事が出来ます」
らしい。
「でも確か、ロックがかかってたけど・・・」
「そんなの、この天使様にかかればお茶の子さいさいでしたよ」
お茶の子さいさいって・・・。古いな。
「ロック番号は?」
「1111」
「おお」
何故天使が、誠のスマホのロック番号を知っているのかはさておき、誠は素直に天使に感謝した。天使に助けられなかったら、今頃あの世にいたはずだ。
天使は最後のゼリーの一欠けらを、口に頬張った。
もぐもぐと咀嚼する姿はまるでハムスターのようだ。
「あにょままだったら」
「何て言ってるかわかんねーよ」
天使はごくん、とゼリーを嚥下した。
「あのままだったら、貴方は死ぬ運命にありました。それを僕が天界の掟を破ってまで、貴方を助けたんです。感謝してください。」
そう恩着せがましく言う天使。
恩を着せようとするなんて本当に天使か、と誠は疑いたくなった。
天使は、空になったゼリーの容器を、部屋の隅にあるゴミ箱に投げ入れた。
「・・・ありがとな。おかげで助かった」
誠が渋々そう口にすると、天使はふふんと満足気に笑った。
「でも何で俺を助けたんだ?」
誠は不思議で仕方なかった。
(天界の掟とやらを破ってまで、俺を助ける価値があるだ
ろか?いや、ないだろう。無職だし、恋人も友人も、家族すらいないし。俺が死んだところで誰も悲しまないし)
――生きている意味すらよく分かってない、こんな俺を助ける価値なんてない。
天使は顎に手を添え、何か考え込むように、うーんと唸った。
「そうですねぇ。強いて言えば、同情したから。かもしれないですねぇ」
「・・・なんだそれ」
「さっきも言った通り、貴方はあのまま死ぬ運命にありました。誰にも見つけられず、冷たいアスファルトの上で息絶えるはずだったんです。それを僕が迎えに行って、魂を天界に連れいく。・・・そのはずでした」
「でも」と天使は続く。
「あまりにもついてない人生を歩んでるものだから。なんだか可哀そうになっちゃったんですよ。だから思わず助けてしまったんです」
なんとまぁ。天使は同情心から誠を助けたというのだ。
多くの死を見届けてきたであろう天使が、“ついてない”と言い切る程、誠の人生はついてないらしい。やっぱり神に見放されているに違いない。
天使はわざとらしく大きな溜息をついた。
「今では後悔してますよ。天界の掟を破ってしまったせいで、謹慎処分を食らったんです。おかげでここ一か月は天界に帰れません」
「さっきから天界の掟、天界の掟って言っているけど、それって何なんだ?」
「人間界に干渉してはいけないってルールです」
「がっつり破ってるな」
意外と天使はいい奴なのかもしれない、と誠は思った。
(同情されたのはなんだか癪に障るが、助けてくれたんだもんな。しかも何の見返りを求めずに)
やっぱり天使は、天使様だ。
・・・とかなんとか思っていると。
「――対価を求めます」
天使は手をまっすぐ天に伸ばし、そう言った。
前言撤回。やっぱりこいつ本当に天使か?
「対価ァ?勝手に助けといて何が対価だよ」
「じゃあ、あのまま死にたかったんですか?いいですよ別に。あの夜の出来事をなかった事にして、このまま魂を天界に連れて行く事だって出来ますから。そしたら晴れて僕の謹慎処分も解ける。ウィンウィンって奴です」
「・・・いや、何も死にたいとは言ってないだろ」
凄く生きたいわけでもないが、別に死にたいわけでもない。
出来る事なら、幸せに生きたい。
天使は腕を組みながら、偉そうに言った。
「貴方のおかげで、一か月は無職の身になってしまったわけです。どう責任を取ってくれるんですか?」
「責任つってもなー」
(俺が天使に与えられることなんて何もない。何も持ってないのだから、何も与えられない)
唯一出来る事と言えば、数千円ぽっちの僅かな金を差し出すことだろうか。
「何が欲しい?金か?」
「そんなものいりません。天界じゃ使えないじゃないですか」
「だよなぁ。でもそれ以外、俺がお前にしてやれる事なんて何もないぞ」
「そんなに自分を卑下しないで下さいよ。悲しくなります」
天使は両方の口角を上げた。
腹立つくらい美形だな、ちくしょう。
「何やら人間界では楽しげな物がいっぱいあるじゃないですか。カラオケに映画館。それからええと・・・。漫画喫茶に猫カフェに水族館に遊園地に」
「もういいもういい」
行きたいところリストを天使に作らせたら、大変なことになる気がする。巻物状のものが出来上がりそうだ。
「僕が対価に求めるのはただ一つです。一か月のバカンス・・・じゃなかった」
「今バカンスって言ったよな?」
「言ってません。誠さんの幻聴です」
「腑に落ちない」
天使は誤魔化すようににへらと笑った。
「――一か月の謹慎期間、僕を色んなところに連れていって楽しませてくれませんか?ってことです」
「・・それが対価か?」
「はい」
対価がそんなお安いもので、いいのだろうか。
もっとこう....寿命を半分貰うとか。記憶を奪うとか...。
それを天使に言ったら、「それ僕に何のメリットがあるんですか」と返ってきた。
...確かに。
「人生に価値を見いだせない貴方にはわからないでしょうが、これは人生を楽しむためには必要なことなんですよ」
「...そういうもんか?」
「....はぁ。貴方は本当に恵まれない人生を送ってきたんですね」
釈然としない誠を前に、天使は悲しそうに視線を落とした。
「人生はもっと価値があって、楽しいことで溢れてるのに。それがわからないなんて可哀想です」
「そんなこと言われてもなぁ」
こっちは三十二年間、楽しい、幸せとは縁遠い人生を歩んできた。
ただ生きるために必死に働いて。働いて。働いて。
...あれ?俺働いてばっかりじゃないか?
最後に遊んだのっていつだっけ、と誠は記憶を遡る。
確か高校生のときに未成年というのを誤魔化して、不良仲間と共にクラブに潜入したっきりご無沙汰な気がする。そもそもそれも遊んだ内に入るかも微妙なところだが。
長らく遊んでないな。まぁ友達も恋人もいないし当然か。
天使はおもむろに立ち上がった。
「決めました!僕が貴方に、人生の楽しさを教えて差し上げます」
そう天使は啖呵を切った。
天使の瞳は生き生きとしている。
まるで新しいおもちゃを見つけた子供のようだ。
(なんだか妙なものに巻き込まれたなぁ)
誠の率直な感想だった。
げんなりとした誠の顔を見るなり、天使は眉間に皺を寄せた。
「なんですか、その顔は」
おっと、いけない。顔に出ていたらしい。
「せっかくこの僕が人生の楽しさを教えてあげると言っているのに。何かご不満でも?」
「不満と言うかなんというか。やっかいなものに顔を突っ込まれたなって感じだな」
「やっかいなものって何ですか。失礼な」
「対価って他の何かじゃだめなのか?」
「駄目です。もう決めましたから」
「それに」と天使は続く。
「貴方、いいんですかこのままで。死んだように生きてて楽しいですか?」
「・・・楽しくない」
「でしょ!?」
天使は身を乗り出すように顔を近づけた。
近い。近い。
「自分を変えるチャンスですよ!!新しい自分に生まれ変われるかも知れないんです。これからの人生もっと楽しく」
「分かった...分かったよ...」
誠は天使の言葉を遮った。
深夜に放映しているテレビショッピングでも見ているような気持ちだ。
誠が遮らなかったら、小一時間は平然と喋り続けていたはずだ。
誠が渋々了承すると、天使は安堵するような表情を見せた。
天使は必死だった。おそらく1ヶ月のバカンスを楽しむためだろう。
「分かってくれてなによりです」
「釈然としない」
「まずはここを早く抜け出さないといけませんね。その傷、何時治るんですか?今すぐ治して下さいよ」
「無理言うなよ」
おそらくここ一、二週間は安静にしてないといけないだろう。
「天使なんだろ?こう....魔法みたいな不思議な力で、なんとかならないのか?」
「そんな事出来るわけないじゃないですか。僕はただの天使ですよ?」
天使って一体なんだろう。
ただ翼が生えた人間なんじゃないだろうか。
「・・・そういえば自己紹介するのがまだでしたね」
天使は楽しそうに瞳を細めた。
「僕の名前はエル・アドルフ・リシャール」
「...エル?アドルフ...なんて?」
「長いのでエルでいいですよ。これから宜しくお願いします。誠さん」
そう言って天使は真っ白な手を差し出す。
「....宜しく」
誠は差し出されたその手を握った。
ーーこうして誠と天使の奇妙な共同生活は始まったのだった。
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