知は力なり、と賢者は言った

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「殺すな!」  老人が叫んだ。  その言葉が耳に入るより早く、勇者の剣は魔物の心臓を貫いた。  呻き声をひとつ上げた魔物は、勇者の目を恨めしそうに見つめながら、どさりと床に崩れ落ちた。  勇者は魔物から剣を引き抜き、ゆっくりと鞘に収めた。  ――王宮から国一番の賢者をさらったにしては、あっけない。人を惑わすために、ヒトの姿を模したのが、貴様の力を弱めたのだ……。  その横で、老人は傍の椅子によろよろと腰掛け、息絶えた魔物を虚ろな眼差しで見下ろした。灰色のローブの裾から出た細く曲がった指が、小さく震えていた。 「遠き世界から、堕ちてきたのよ。……可哀そうに」  ――魔物にも、情けを。優しいのか…変人なのか。 「けれど、魔物は、魔物です。賢者殿」  うなだれた老人に背を向け、勇者は壊れた窓に近づいた。塔のずっと下の方に、つながれた馬が見えた。この陰鬱とした塔から、一刻もはやく外へ出たい。急かすように老人に声をかけた。 「とにかく、もう安心です。さあ、帰りましょう」  しかし老人は、動こうとはしなかった。椅子に座ったまま、不機嫌そうに、不服そうに勇者に告げた。 「断る」  勇者の顔が強張った。「何ですって?」 「わしは、自ら望んでここに来たのだ。さっき、殺すなと言ったのが聞こえなかったか」  自分を責めるような老人の口調に、勇者は眉をひそめた。  断崖の上の塔。塔に吹き付ける北風。冷たい風の吹き込む壊れた窓。崩れかけ、基礎がむき出しの壁。煤で黒く薄汚れた天井。今にも芯が倒れそうなロウソク。……足元で血を流して息絶えている魔物。  望んでここに来る理由など、勇者には想像もできなかった。「……なぜ?」 「こやつは、この世界で独りぼっちだった。こやつの話し相手は、わしだけだったのだ」  それを聞いて、勇者には思い当たることがあった。  北の果て、この朽ち果てた塔へ、天から堕ち、妖しき術を使い、不遜な言葉を叫ぶ魔物が棲みついたという噂が王宮まで聞こえてから、賢者は時折、空を見上げて物思いにふけるような顔をしていた。 「賢者殿……」魔物ごときに憐憫など無用です、と言いかけた勇者の言葉を、老人が遮った。 「こやつが持っている叡智を手に入れる、絶好の機会であったものを」  老人は悔しそうに首を振った。 「賢者殿……?」  老人の声に、望みが失われた虚しさと、目の前の勇者への怒りが浮いては沈んだ。 「お主も知っておろう。魔物は、わしたちをはるかに越えた存在なのだ。わしは知りたかったのだ。求めたのだ。この世界では決して手に入れることのできない知恵を、ものの理を」一息ついて、蔑むような目になった。「新しき知は、道を切り開く力なのだ。お主には、わかるまい」  勇者は、その目を見返しながら思った。  ――世界のすべてを知りたいという欲望。それ故、賢者殿は魔物の甘言に、術に、魔の道に堕ちたにちがいない。  老人は目を細め、うなだれて、横たわる魔物を見た。 「わしとすっかり仲ようなったこやつは、世界の有り様を教えてくれた……見たこともない法具を見せてくれた……。生かしておればもっと、もっと……。それを、お主が」 「賢者、殿」勇者は腰の剣に手を添えた。  ――斬るべきか。賢者殿だぞ。  剣の柄に手をかけたまま、勇者は逡巡した。  老人がつぶやいた。「こやつは、死んだ」しばしの沈黙のあと、もう一度、繰り返した。声が少し大きくなった。「死んだ?」  老人はぱっと顔を上げると、勇者を見た。虚ろだったその目に、生気が戻ってきた。 「ああ……お主は……魔物を殺してくれたのか」 「……いかにも」勇者は老人の様子に、まだ警戒しながら答えた。 「ああ、そうか……」老人の顔に笑みがこぼれた。「殺してくれたのか!」 「わしは、君にお礼を言わねば」老人は椅子から勢いよく立ち上がった。笑顔がさらに大きくなった。「ああ、ありがとう。ありがとう、本当に」  勇者は大きく息を吸って、吐いた。  ――魔物が死んで……おそらく何かの術が解けたのだ。  勇者は老人を促しながら、歩き出した。「さあ、参りましょう」  その背後で、喜びを抑えきれないような、上ずった老人の声がした。 「こやつは、見せるだけ。使い道を教えるだけ。決してわしには、使わせてはくれなかった。ああ、やっとこの法具を、わしが使う日が」  勇者はゆっくり振り向いた。  老人は、床に転がる魔物の懐から、黒光りするものを取り出していた。「……知は力だ。言葉通り」 「……何だ、それは」勇者は剣の柄に再び手をかけた。心を決めた。  ――今度こそ、おかしな動きをしたら、斬らねばならぬ。賢者殿が動くのが速いか、この剣が速いか。 「何といったかな。……ああ」  老人は、その道具を真っ直ぐ勇者に向けた。 「コルト・パイソン」
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