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 1月1日 - 徳島銀行と大正銀行の合併により徳島大正銀行発足。 竹内和正は栃木県日光市に住んでいる。介護士をしていたが、去年の12月に仕事を切られた。   失業保険をもらいながら何とか暮らしている。  この日はコタツに入りながら、家族と過ごした。  両親とも元気で、兄弟はいなかった。  父親はつい最近まで道の駅で働いていたが、定年退職した。     沼田研二(ぬまたけんじ)は東京から日光にやって来た。  観光センターに入り、日光市の歴史について調べた。  江戸時代以前、日光は日光山の門前町、修験道の道場であり山岳信仰の聖地であった。鎌倉時代には日光権現として知られていた。その後、徳川家康が覇権を握ると家康に仕えその深い信頼を得ていた慈眼大師天海が家康の力により日光山貫主となり、家康の死後はその進言により家康の神号が権現となり廟所も日光東照宮となった。日光が参詣客(物見遊山)で賑わうようになったのはこの頃からである。日光参詣のために、日光街道を初め、日光西街道(壬生通り)、日光例幣使街道、日光北街道、会津西街道など、多くの参拝路が整備された。  明治時代に入ると富国強兵の国策のもと、海外からお雇い外国人が渡航するようになり、当時海外にも広く知られていた景勝地日光を訪れる外国人が増えた。イザベラ・バードやフランツ・フェルディナント大公は日光滞在中の出来事を手記として残し、当時の日光の様子を知る貴重な文献として知られている。こうした外国人が日光に快適に滞在・宿泊するため、ホテルなどの施設が整備され、以後、国際観光都市として広く世界に知られるようになった。特に日本駐在大使館・領事館の別荘が多く建てられ、「夏になると外務省が日光に移る」といわれるほどであった。その名残で現在も日光には洋風建築が多く残っている。  江戸時代まで  782年(延暦元年):勝道上人が四本龍寺(現輪王寺)を建てる。  784年(延暦3年):勝道上人が中禅寺湖畔に中禅寺を開く。  1617年(元和3年):日光東照宮建立。以来、江戸時代には日光街道の終着地、日光東照宮の門前町となる。  明治維新以後  1889年(明治22年)4月1日:町制施行により日光町、七里村、清滝村、細尾村、野口村、北和泉村、山久保村、所野村、久次良村が合併し上都賀郡日光町が発足する。  1890年(明治23年)8月1日:旧国鉄(現東日本旅客鉄道)日光駅開業。  1929年(昭和4年)10月1日:東武日光駅開業。  1954年(昭和29年)2月11日:日光町と小来川村が合併して市制を施行し、日光市が発足する。  2006年(平成18年)3月20日:今市市、(旧)日光市、足尾町、藤原町、栗山村が新設合併し、現在の日光市が発足する。同時に2代目の市章を制定する。     1月4日 - 尖閣諸島沖で中国海警局の4隻が領海を航行。  朝食を食べ終え、和正は暇だったので日光杉並木をウォーキングした。  日光杉並木は、日光街道、日光例幣使街道、会津西街道のうち、旧日光神領内にあたる大沢 - 日光間16.52キロメートル、小倉 - 今市間13.17キロメートル、大桑 - 今市間5.72キロメートルの3区間の両側にスギが植栽された並木道の総称である。総延長は35.41キロメートルに渡り、世界最長の並木道としてギネス世界記録に登録されている。江戸時代の徳川幕府が五街道をはじめとする主要な街道に松や杉などの並木を整備したが、そのなかでも現存する旧街道の並木として特に有名である。  徳川家康、秀忠、家光の三代にわたって将軍家に仕えた松平正綱が、主君家康の没後、日光東照宮への参道にあたる3街道に約20年あまりの歳月をかけてスギを植樹し、東照宮に寄進したことに始まり、江戸時代には幕府の日光奉行の元で手厚く保護された。明治以降は幾度も伐採の危機に瀕するものの、官民双方の有識者の努力によって大規模な伐採は避けられてきた。中でも、地元出身の林学者で「杉並木博士」と呼ばれた鈴木丙馬は、杉並木の研究と保護に生涯を捧げ、保護運動の中心となって活躍した。  周辺の開発によって旧態を失った箇所もあるものの、植樹から400年近く経った現在でも約12,500本のスギが生い茂り、寄進碑や一里塚も現存するなど、江戸時代の街道の景観をよく伝えており、歴史的にも植物学的にも特に重要とされ、日光杉並木街道附並木寄進碑として、日本で唯一、国の特別史跡および特別天然記念物の二重指定を受けている。また、日光杉並木街道は、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」のひとつとして選定を受けているほか、読売新聞社選定の「新・日本街路樹100景」にも選定されている。  現在も生活道路として利用されているが、街道を通る自動車の排気ガスや沿線の開発による根の切断などによって樹勢の衰えが進行し、毎年平均して100本以上のスギが倒木や枯死により姿を消している。保護が叫ばれて久しいものの、減少のペースに歯止めを掛けるには至っていない。このままでは100年後には消滅してしまうとも言われ、これを打開すべく保護活動も盛んに行われている。  1617年(元和3年)に徳川家康の霊廟として日光東照宮が創建されると、将軍家や諸大名が日光参詣をするようになり、江戸から日光への道路が急速に開け、江戸から宇都宮へ続く奥州街道も日光街道へと呼び改められるようになった。日光杉並木は、若くして家康に仕えた松平正綱が、その恩に報いるために、1625年(寛永2年)から20年以上の歳月をかけて、紀州から取り寄せた杉の苗木を植樹したもので、1648年(慶安元年)、家康の33回忌に参道並木として東照宮に寄進した。この年、家康の命日である4月17日の日付をもって、正綱の名で並木の起終点4箇所に、息子の松平正信によって寄進碑が建立される。その後正綱は同年6月に亡くなり、子の正信がスギを植え足して今日に伝わる約1万5000本の並木となった。この並木は日光奉行が管理することになって保護に努め、枯れて損じた場合には必ず補植の措置がとられた。  言い伝えでは、日光東照宮の造営に際し、正綱が杉の苗木を寄進すると申し出たところ、諸大名からは「東照宮に対して何とケチなことよ」と非難を受けたが、正綱は「末をご覧あれよ」と返したといわれる。正綱が、当時の街道の並木として一般的に植えられた松ではなく杉を選んだ理由は、一説には天を突く杉の姿に神気を感じたためといわれており、また、雨の多い日光の気候や地形に合わせて、湿気の多い地質に生育の適する杉を、正綱が選んだのだろうともいわれている。  1956年(昭和31年)になって国の特別天然記念物に指定。植えられてすでに390年以上が経過するが、現在は高さ30 - 40mほどに成長し、日光東照宮へ向かう道は厳かな景観を作っている。近年では、風雨や自動車排気ガス等による倒木や枯損を抑止するため、バイパス建設や杉並木オーナー制度を導入して樹木保護のための基金を設立して、保護対策活動に乗り出している。  1月11日 - 京浜東北線日暮里駅で視覚障害者の男性が線路に転落して電車にひかれて死亡。  和正は日光駅近くにあるハローワークに出かけて、比嘉真由美(ひがまゆみ)という30代の相談員から「竹内くんはまだ25歳だからいろいろトライできるよ。30歳過ぎると受け入れてくれる職場も減るからね」    1月14日 - 中国海警局の4隻が尖閣諸島周辺の領海を航行。  杉並木の近くにある廃墟で死体が見つかった。  日光署の黒木刑事たちが調べたところ壁に、5重渦状紋という、5つの渦巻きのある特徴的な指紋が見つかった。  1月18日・19日 - 最後の大学入試センター試験。2021年より大学入学共通テストに移行予定。  和正は真由美と付き合い始めた。  M県南部にあるY市にやって来た。真由美はボルボに乗っており、運転がかなりうまかった。  ジロ娯楽園という巨大遊園地にやって来た。 「喜多川治良右衛門(きたがわじろうえもん)という金持ちによって作られたそうよ」  真由美は博識だった。  大観覧車や地底の水族館、パノラマ館、縄梯子で昇れる大気球など盛りだくさんだった。 「かつて、ここで大量虐殺が行われたのよ」 「幽霊でも出ないうちに帰ろうよ」  1月25日  前日付で退任したNHK会長の上田良一に代わり、この日前田晃伸が就任。    ソフトバンクの元社員が機密情報を不正に取得したとして逮捕された。取得した情報をロシアに譲渡した疑いもある。  深夜、二荒山神社にの前に奇妙な石膏像が置かれているのを和正は見つけた。真由美とエッチなことをする為にやって来たのだった。  その像はよく見ると、死体だった。  スマホで日光署に通報した。黒木刑事が駆けつけた。黒木は大昔の猟奇殺人事件を思い出した。  その殺人鬼は鼻と上唇のあいだが短く、上唇がめくれ上がった美女に執着し、次々に殺した。  女性ばかり狙うから『青ひげ』と呼称されていた。  霊場としての日光の始まりは、下野国の僧・勝道上人(735年-817年)が北部山岳地に修行場を求め、大谷川北岸に天平神護2年(766年)に紫雲立寺(現在の四本龍寺の前身)を建てたことに始まるとされる。そして二荒山神社の創建は、上人が神護景雲元年(767年)二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたことに始まるとされる。この祠は現在の別宮となっている本宮神社にあたる。上人は延暦元年(782年)二荒山登頂に成功し、そこに奥宮を建てて二荒修験の基礎を築いた。その後、神仏習合の霊場として栄えることとなったと伝えられる。  なお、社伝などでは上記のように勝道上人が開祖と説明されるが、実際には太郎山神社周辺で古代の祭祀の痕跡を示す遺跡が見つかっており、相当古くから聖地として信仰対象であったことがわかっている。  空海が訪れた際、女峰山の神を祀る滝尾神社を建てたと伝えられている。また、円仁も日光を訪れたとされ、その際に現在輪王寺の本堂となっている三仏堂を建てたといい、この時に日光は天台宗となったという。ただし、2人の来訪は史実と言えず、伝承の域は出ていない。  その後、二荒山の神を本宮神社から少し離れた地に移して社殿を建て、本宮神社には新たに御子神である太郎山の神を祀った。このとき新たに建てた現在の本社、元の本宮神社、そして滝尾神社は総称して「日光三社」と呼ばれる。  平安時代には承和3年(836年)の正五位下勲四等に始まって貞観11年(869年)の正二位勲四等の神階奉授の記録があるほか、『延喜式神名帳』に記載されている名神大社「下野国河内郡 二荒山神社」の記載がある。ただし、この論社には宇都宮市の宇都宮二荒山神社もあり、帰属を巡っては古くから議論がある。また、両社とも下野国一宮を称している。  鎌倉時代初期には、男体山山頂遺跡の出土品から山岳信仰が最盛期を迎えたことが示唆されており、神社祭礼もこの時に確立されたと考えられる。  戦国時代には、後北条氏に加担したことにより豊臣秀吉に領地を没収され、衰退した。  江戸時代初め、徳川家康の側近で日光山貫主となっていた天台宗の僧天海(慈眼大師)により、徳川家康を祀る東照社(日光東照宮)が江戸幕府によって創建されると、二荒山神社もまた、江戸幕府のみならず朝廷や諸大名、さらに民衆からも厚い崇敬を受けた。元和5年(1619年)には、徳川秀忠によって本殿が再建された。  1873年(明治6年)に宇都宮の二荒山神社に加えて国幣中社に追加列格した。第二次世界大戦後、神社本庁の別表神社となった。  1月27日 - 山形県の老舗百貨店・大沼及び関連会社の大沼友の会が山形地方裁判所に自己破産を申請。即日破産開始決定を受けた。    和正は介護士をしていたときに知り合った、小林という老人を思い出した。施設は中禅寺湖の畔にある。小林は文代(ふみよ)っていう女性について教えてくれた。文代の父親は犯罪者で、最初は父親に力を貸していた。だが、ある名探偵に心を惹かれ父親を裏切る。名探偵の助手となり様々な事件を解決した。 「文代さんはまるで母さんみたかった」   文代は重い病気に罹り、療養所に入った。 「で、彼女はどうなったのですか?」 「その後のことは分かりません」  1月29日 - 新型コロナウイルスの主な感染エリアとなっている中国・武漢市の封鎖により、現地に取り残されていた日本人の民間チャーター便による帰国が開始された。 『アザミ園』の個室で小林は黄昏の湖を眺めていた。  中禅寺湖は、約2万年前に男体山の噴火でできた堰止湖である。人造湖を除く広さ4km2以上の湖としては、日本一標高の高い場所にある湖である。また、栃木県最大の湖である。1周は約25kmであり、歩くと9時間ほどかかる距離である。湖のすぐ北には男体山がそびえ、北西には戦場ヶ原が広がる。    中禅寺湖は、現在は観光地として知られるが、日光山を開いたとされる勝道上人が発見したとされる湖であり、かつては神仏への信仰に基づく修行の場として知られていた。湖岸から約100m離れた場所にある上野島には、勝道上人の遺骨の一部が納められている。  湖の南側には八丁出島と呼ばれる細長く突き出した半島があり、紅葉の名所として知られるほか、薬師如来を祀っていたとされる薬師堂跡がある。  千手ヶ浜と呼ばれる砂浜は、車の乗り入れ禁止であり、徒歩や遊覧船でのみ訪問できる場所で、樹齢200年を超えるミズナラやハルニレ、赤や白のクリンソウがみられる。  明治中期以後、観光地として知られるようになり、湖畔には現在もフランスやベルギーなどの大使館別荘がある。  もともと魚は生息していなかったが、明治期から徐々に放流が行われ、1991年の調査ではマス類およびコクチバス、ワカサギ、ウグイ、コイ、フナ、ヒメマス、ホンマスなど24種の魚種が生息している。特に、ヒメマスは湖産親魚から採卵孵化した稚魚が放流され、地引き網などで捕獲された魚は特産品として、また遊漁目的の重要な観光資源となっている。なお、ホンマスは、ヤマメ(Oncorhynchus masou)とビワマス(Oncorhynchus masou rhodurus)の交雑個体とされている。日本で唯一レイクトラウトが繁殖しており、スポーツフィッシングの対象となっている。  殺人請負会社というヤバい組織は今はどうなったのだろう?  学者崩れの須原というチビがボスで、仲間には評論家崩れの男、女医崩れの女がいた。様々な事件を完全犯罪化している。  1月31日 - 政府は、検察官に適用できないとしてきた定年延長規定の法解釈を変更して、黒川弘務東京高等検察庁検事長の定年延長を閣議決定した。  和正は昼飯後、日光市立図書館に出かけて読書ブースで『絵本三国妖婦伝』を読んだ。少女、藻女(みずくめ)は子に恵まれない夫婦の手で大切に育てられ、美しく成長した。18歳で宮中で仕え、のちに鳥羽上皇に仕える女官となって玉藻前(たまものまえ)と呼ばれる。その美貌と博識から次第に鳥羽上皇に寵愛されるようになった。  しかしその後、上皇は次第に病に伏せるようになり、朝廷の医師にも原因が分からなかった。しかし陰陽師・安倍泰成が玉藻前の仕業と見抜く。安倍が真言を唱えた事で玉藻前は変身を解かれ、九尾の狐の姿(『玉藻の草子』では二尾の狐として描かれている)で宮中を脱走し、行方を眩ました。  その後、那須野(現在の栃木県那須郡周辺)で婦女子をさらうなどの行為が宮中へ伝わり、鳥羽上皇はかねてからの那須野領主須藤権守貞信の要請に応え、討伐軍を編成。三浦介義明、千葉介常胤、上総介広常を将軍に、陰陽師・安部泰成を軍師に任命し、軍勢を那須野へと派遣した。  那須野で、既に九尾の狐と化した玉藻前を発見した討伐軍はすぐさま攻撃を仕掛けたが、九尾の狐の妖術などによって多くの戦力を失い、失敗に終わった。三浦介と上総介をはじめとする将兵は犬の尾を狐に見立てた犬追物で騎射を訓練し、再び攻撃を開始する。  対策を十分に練ったため、討伐軍は次第に九尾の狐を追い込んでいった。九尾の狐は貞信の夢に娘の姿で現れ許しを願ったが、貞信はこれを狐が弱っていると読み、最後の攻勢に出た。そして三浦介が放った二つの矢が脇腹と首筋を貫き、上総介の長刀が斬りつけたことで、九尾の狐は息絶えた。  その後、九尾の狐は巨大な毒石に変化し、近づく人間や動物等の命を奪うようになった。そのため村人は後にこの毒石を『殺生石』と名付けた。この殺生石は鳥羽上皇の死後も存在し、周囲の村人たちを恐れさせた。鎮魂のためにやって来た多くの高僧ですら、その毒気に次々と倒れたが、南北朝時代、会津の元現寺を開いた玄翁和尚が殺生石を破壊し、破壊された殺生石は各地へと飛散したといわれる。  玉藻前の経歴は中国古代王朝殷にまで遡る。殷の最後の王である紂の后、妲己の正体は齢千年を経た九尾の狐であり、王の妾であった寿羊という娘を食い殺し、その身体を乗っ取って王を惑わせたとされる。王と妲己は酒池肉林にふけり、無実の人々を炮烙の刑にかけるなど、暴政を敷いたが、周の武王率いる軍勢により捕らえられ、処刑された。またこの処刑の際に妲己の妖術によって処刑人が魅せられ首を切ることができなくなったが、太公望が照魔鏡を取り出して妲己にかざし向けると、九尾の狐の正体を現して逃亡しようとした。太公望が宝剣を投げつけると、九尾の体は三つに飛散した。  しかしその後、天竺の摩竭蛇(まがだ)国の王子、斑足太子(はんぞくたいし)の妃華陽夫人として再び現れ、王子へ千人の首をはねるようにそそのかすなど暴虐の限りを尽くしたが、耆婆(きば)という人物が夫人を魔界の妖怪と見破り、金鳳山中で入手した薬王樹で作った杖で夫人を打つとたちまち九尾の狐の正体を現し、北の空へ飛び去って行った。  周の第十二代の王、幽王の后、褒姒も九尾の狐とされる。褒姒がなかなか笑わないので、幽王はさまざまな手立てを使って彼女を笑わそうとし、ある日何事もないのに王が烽火を上げ、諸侯が集まったという珍事に初めて笑ったといわれ、それを機に王は何事もないのに烽火を上げ、諸侯が烽火をみても出動することが無くなり、後に褒姒により后の座を追われた申后の一族が周を攻めたとき、王は烽火を上げたが諸侯は集まらず、王は殺され、褒姒は捕虜にされたが、いつの間にか行方知れずとなっていた。後に若藻という16歳ほどの少女に化け、吉備真備の乗る遣唐使船に同乗し、来日を果たしたとされる。  
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