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十六話-朝
夜が終わる。
朝日が昇るのに先立って、近江谷村の空気が白み始める。
氷より冷たい屋根の上で、空は思い切りくしゃみをした。
「だいじょーぶ?」
「大丈夫に見える?」
恨めしげに睨むその表情は、紅南のよく知っている空だ。彼は昨晩紅南が運んできた布団にくるまりながら、若干わざとらしく体を震わせる。
「で? 何これ」
真正面から純粋な怒りをぶつける空に、紅南は口ごもった。それを見てさらに眉を寄せた空は、憎悪ともとれる声で問う。
「なんでこんなところに連れてきたわけ?」
「……連れてきてないよ」
「は?」
空は朝に弱いのかもしれない。紅南はそう分析した。昨日以上に威圧的で、有無を言わせぬ鋭さがある。全身から負のオーラが滲み出ている。
「私は一睡もしてないのに」という不服は腹の底に押しやって、紅南は極力冷静に対処する。
「昨日、空が自分で屋根の上に登ったんだよ」
「は? そんなわけないでしょ」
「覚えてないの?」
「……覚えてない」
一瞬の間があって、若干弱気な返答を得る。記憶喪失の人にこの問いかけはよくなかった、と紅南は密かに反省した。
だが、彼の弱気は一瞬のこと。すぐに持ち直して、無駄に強気に戻る。
「……仮に僕が自分で登ったとして。君なら僕を担いで家に戻すことだってできるでしょ。こんなところで寝たら風邪引く」
理不尽だ。確かに担ぎ入れることはできるだろうけど。完全に責任を押しつけられてる。
紅南は再度文句を言いたい気持ちを喉の奥に押し込んで、昨晩の話を持ち出した。
「昨日は、空の様子がおかしかったの」
紅南がそう切り出すと、空は眉のしわを戻して怒りを引っ込めた。
一通り紅南が話し終えた後、彼の一言目は簡素なものだった。
「……覚えてない」
そして、布団の中で真面目な顔をして考え込み、数拍置いて言葉を続ける。
「だから、目宮って人と一緒にするのは危ないと思って、ここで寝かせたまま、見回りもやめて隣で監視してた?」
「うん……布団は持ってきたよ?」
「見ればわかる」
間髪入れずに冷たい相槌。紅南は口をつぐんだ。
もう一つか二つは小言を聞くことになるかと身構えたが、何の言葉も飛んでこない。紅南は昨晩とはまた違った恐ろしさを感じた。
空はやけに落ち着いた様子で、黙って立ち上がる。布団を腕の中にまとめて、屋根の縁へと歩いていく。
「英断だったと思うよ」
「え?」
「その条件なら」
彼の目はどこか遠くを見ていて、声はむしろ沈んでいるようだったから、紅南は褒められたとすぐに認識できなかった。
紅南が喜びを伝えようとする頃には、彼は屋根を降りてしまっていた。
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