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一話-近江谷村
「本当に何も覚えてないの?」
何度目か分からない紅南の問いに、少年は目を逸らした。
嘘をついている気まずさはなく、「何回言わせるつもりだ」とでも言いたげな涼しげな視線が森の中をさまよう。息が整うにつれ状況を自分なりに理解したようで、明確な戸惑いは見えなくなっている。
「自分の名前は? さっきの水のことは?」
「わからないんだってば」
さっきからこの調子だ。さすがの紅南もどうしたらいいのだろうかと天を仰いだ。
少年は、記憶喪失のようであった。
何度聞いても、自分の名前はわからない。さっきの水についてもわからない。どこから来たのかも、自身の年齢も、もちろんここがどこなのかもわからない。
わからないの一点張り。言葉は通じるのが唯一の救いだった。
「質問したいのはこっちだよ。ここはどこなの」
彼は尋ねながら、細い木を支えにしながら立ち上がった。
息の乱れはだいぶ収まって、支えから手を離しても立ち上がれるくらいには体力も回復したようである。
彼の和服はいわゆる着流しスタイルで、くすんだ紺青は案外現代の物寂しい山にも溶け込んでいる。
太ももまで伸びた長い柳髪と優しい顔立ちで、声を発しなければ女性にも見えるかもしれない。
やっぱりこんな人、見たことないよね。紅南は自問して、確かにうなずいた。
「ここは近江谷村っていう村だよ。ここは山の中で、夏ならもっと生い茂ってるんだけど」
紅南は素直に質問に答えてやった。
冬だからねぇ、紅南はそう言いながら緑のない山を見渡す。
雪も降らないこの地では、冬の山に風情などない。密に植えられた木々は細くなって、個性なく黒い線が並ぶだけだ。
紅南は何気なしに空を見上げる。
今日は雲ひとつない晴天。枯れた木々の間からは無彩色の光が差し込んでいる。
特別風情はないが、気持ちが暗くなるような情景でもない。
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