二 妙心寺の絶蔵主

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二 妙心寺の絶蔵主

 寛永十三年(一六三六年)晩春、京。  正法山妙心寺は、春の穏やかな陽気の中にも、清閑な趣を漂わせる臨済宗の禅寺である。碁盤の目を為す平安京の北西の一画、花園の地にある。およそ三百年前、花園上皇の離宮をその寄進により寺としたものだ。広大な敷地にいくつもの伽藍が立ち並ぶこの寺は、洛北の大徳寺と並んで、座禅を中心とした厳しい禅風を伝え、「山林派」と呼ばれている。在野の「山林派」に対し、幕府が定めた南禅寺を本山とする五山を「禅林派」ともいう。  その塔頭の一つ、大通院の住職である湘南宗化は、妙心寺住職が住む大方丈へ足を運んだ。 「湘南和尚」  すれ違う僧たちは皆、道を譲って挨拶をする。湘南は朝廷から紫衣を許され、和尚の称も賜った高僧である。土佐を治める山内家先代、山内一豊が近江長浜の国主であった頃、守り刀と共に捨てられていた赤子を拾った。実子を地震で失ったばかりだった一豊は、赤子を「拾」と名付け、実子同然に慈しみ育てた。それが湘南である。その後十歳で出家した湘南は、その縁で、今は一豊夫婦の霊屋を守る妙心寺大通院と、土佐の名刹吸江寺の住職を務めていた。
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