【NERO】

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【NERO】

 彼女は、別れた恋人と一緒に仕事をしている。大人同士の付き合いで、それはそれ、仕事は仕事だ。わだかまりがないとは言えないが、ビジネスパートナーとして対応してきた。  だから、彼が若い女と結婚すると聞いても、おめでとうという言葉以外に吐く言葉はなく、特段の想いもなかった。  とはいえ、やはりわずかな引っかかりがあったのかもしれない。新たな商品として売り出した若者向けのヴァイオリンに彼がNEROと名付けた時に、ふと不吉な名前だと思いつつも口に出さなかった。どこか、彼のしあわせを恨む気持ちがあったのだろうか。  彼女がイメージしたのは、地獄の劫火に身を灼きながらヴァイオリンを弾き続ける皇帝ネロの姿だ。地獄の堕天使たちは、地上に失われた偉大な芸術家を歓呼して迎えたのか。あるいは、あくびをしながら、かつての皇帝をゴキブリのように叩き潰したのかも。  やはり、と言うべきか。  彼の新居は結婚した次の日に焼け落ちた。すくなくとも初夜を越えられたことだけは幸せだった。そう言っても構うまい。  むろん彼女が火をつけたわけではないが、警察と消防の検証を経ても火元はわからなかった。ただ、リビングに飾ってあった例のヴァイオリンのあたりが強く燃えていたらしい。  目覚めたとき、彼女はまだ火災の事実を知らなかった。不吉な夢のことを思い出す。  夜の奥で彼の新居が燃えていた。  燃えさかる炎を通して、ヴァイオリンの演奏が聞こえてくる。途切れ途切れに響くのは、〈トロイアの陥落〉だ。炎でできた彫像のような人影は皇帝ネロに違いない。どうせ顔など知らないと思いながら目を凝らすと、演奏者は自分の顔をしていた。  それに対し、夢の中の無関心さをもって見つめながら、そもそもネロとヴァイオリンの話は嘘だと考えていた。燃えさかるローマを眺めながら音楽に(ふけ)る、そんなことは絵画的な嘘でしかない。  火事場に背を向けて歩き出した彼女は、途中で何かを見たようにつぶやいた。クォ・ヴァディス、どこへ行かれるのですかと。  不可視の何者かを追うように目をやった先で燃えさかる彼の新居が崩れ落ち、やがて幽かに聞こえていたヴァイオリンの音が消え去り、失われた炎とともに静謐が満ちた。  足を止めていた彼女は歩き出し、もはや振り返ることもなく、どこへいくのかと聞かれることもなく、ひっそりと目覚めたのだった。
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