【ふと】

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【ふと】

 ふと見かけたものを見失う。  そんな経験がありはしないだろうか。僕にはよくある。多い方なのか少ない方なのか、調べてみたことも聞いてみたこともないから分からないけれど。  例えば、本。  図書館で、あるいは古書店で、ふらっと歩いているときに、ふと目の端に背表紙が映り込むことがある。面白そうな感じがしてその本を探すけれど、なぜか見つからない。  例えば、店。  さほど遠くはない隣町かどこか、きまぐれに裏通りを一本中へ入った道を歩いていたら、こじんまりとした喫茶店を見つけて思いがけず優雅なときを過ごした。また来ようと思い、日をおいて来てみると、間違いなく同じ路地なのに喫茶店なんてどこにもない。  例えば、人。  名前を知るほど近くはなく、けれど毎日のように見かけていた人がいつのまにかいなくなっている。通学途中、同じ駅、同じ時間に乗ってきた少しかわいい女の子を、いつのまにか見かけなくなってしまう。  どれもあり得ることだし、不思議なことでもなんでもない。僕だって、誰かにとって、いつのまにかいなくなってしまった人の一人なのかもしれないし。  この話は、そうして消えてしまった何かを探す、それだけの物語だ。  もう何年も探し続けている。その古書店の名前は、アナタという。浪漫派の詩からとったと店主の女性は話していたっけ。僕が探しているのは、そのお店とその女性なんだ。  最初に出会ったのは本の中だった。  といっても、作中に出てきたわけじゃない。古書店を回っていると、何人もの手を、何軒もの店を渡ってきた本に出会うことがある。いくつもの蔵書印がおされていて、誰のあるいはどの店の所有になっていたかわかる。  たまたま手にした本におされた蔵書印が、その店のものだったんだ。どことなく官能的で人目をひく図案で。ただ、その店がどこにあるのかはわからず、日々の生活にまぎれ、そのまま忘れてしまっていた。  だから、店へたどりついたのは偶然だった。そう、ふとしたときに。  そのころの僕は……。いや、愚痴るのはやめておこう。とにかく、いろんなことで深く落ち込んでいたころ。一人暮らしをしていた青空ハイツを出て、雪の降りしきる街をあてどなく歩き、なんとなく電車に乗って、なんとなく降りた駅から寂れた商店街へ向かった。  心に目的がない日には、行き先は足に任せるといい。古いおもちゃ屋や和菓子店、ところどころに有名どころの喫茶店。動脈のように大きな表通りから伸びる裏通りへ向かった足が、ふと動きを止めた。  そこにあったのが例の店だった。  店の名前をみて、それが足を止めさせたに違いない。看板には本と珈琲の絵が書かれていて、喫茶店なのか古書店なのか判別がつかなかった。降りしきる雪の冷たさに背中を押されるように、僕は扉を開けて店に入った。  からんからんと音が響き、薄暗い店の奥から、いらっしゃいと声が聞こえた。若いのか老いているのか、ちょっと区別しづらい雰囲気だったけれど、女の人だとはわかる。  店内には背の高い本棚がずらりと並び、古書独特の錆びたような匂いに満ちていた。さらに珈琲の深い香りがただよい、鼻腔をくすぐる。  ひょいと香りのした方を覗いてみると、店番なのか、背の高いすらりとした若い女性が長椅子に腰掛けて本を読んでいた。傍らの小机におかれた珈琲から微かに湯気が伸びている。  僕の視線に気付くと、ぱたんと本を閉じて立ち上がった。なぜだか夕闇に伸びる影のような印象を受ける。すらりとした体型に、ふわりとした黒い服がそう感じさせたのかもしれない。だが、その声は温かく、冷えた体に染み込むようだった。 「やあ、よくきたね。いらっしゃい」  にこにこと迎える女性は、商売っ気のない、昔からの友人のような態度で応じ、面食らっているところへ、 「どうやってここへ来たの? 蔵書印かな。蔵書印でしょ? あれは人気があってね。ほそぼそとやってるうちみたいな店へ来る人は、だいたい蔵書印に惹かれた人なんだ。あ、まくし立ててごめんね。なかなか人と話す機会がなくて、ついつい口が動いちゃうの。だめだめ、だめだね、よし、口をつぐみます。もう邪魔しないから、ゆっくりみていきなよ」 と一方的にしゃべって、一方的にだまりこんでしまった。これまた、ふわりと空気のように軽く腰をおろし、本に目を落とす。  ぐっと唇をあわせて開かない様子をみて、僕は話しかけるのをあきらめ、もう一度、ぐるりと店内を見回した。  迷路のように配置された本棚には、ぎっしりと古書が納められている。驚くほど綺麗に、余分な隙間はなく、しかし、取り出すに不自由することもない。いささか丁寧すぎるほど気を配って陳列されているようだった。さっきの商売っ気のない様子をみても、お客は少なく、じっくりと時間をかけて整理しているのだろう。  暗くなりはじめた外の景色が、遠い異国の地のようにみえる。対して、室内にはあたたかい色調の灯りが落ち、古書と自分とを照らしてくれていた。重なり合う影と灯りの線、古書の匂い、珈琲の香り、店主らしき女性が本をめくる音、歩き回る自分の足音。外からの音は遮断され、まるで聞こえてこない。静かすぎる店内で、本の海を、その砂浜に足跡。  おなかが空いてきて、夕食を食べていないことを思いながら古書に手を伸ばした。南米の幻想作家ドコデコによる短編集だ。  本を持って戻ると、女性は長椅子に横たわって眠っていた。すらりとした体は猫みたいで、静かな寝息を立てている様子は、いくらでも見ていられそうだった。赤ん坊の寝顔、あるいは穏やかな死に顔とも思える。  その寝姿に魅入られて身をかがめて近づいたところ、ぱちりと目を開いて、ぐっと体を伸ばし、欠伸(あくび)をしながら、なにか見つかった? と問いかけてくる。 「……この本を。値段が書いてませんけど、いくらですか」  そう応じると、にんまりと口もとを歪ませて女性が立ち上がり、もう一度、体を伸ばして欠伸(あくび)をした。 「ざんねんだけど、売らないよ。値段が書いてないってことはそういうこと」 「古書店ですよね? 売り物じゃないんですか」 「うーん、売るときもある」 「さっき、ゆっくりみていきなって……」 「ゆっくり読んでいきなってことさ。今日の客はあなただけだから」  要領をえない返答に戸惑っていると、女性が珈琲を勧めてきた。 「珈琲なんて飲んでいいんですか。本を汚してしまうんじゃ?」 「ふふん、子供じゃあるまいし。それに、ここにあるのは古書ばかりだよ。ちょっとぐらい構わないって」  いたずらっぽく笑う女性に勧められるまま、かびたような古い紙の匂いに包まれながら美味しい珈琲を味わうのだった。  例の長椅子とは別に、少し離れて安楽椅子が置かれており、そこに座って本を読む。本時々珈琲やがて女性。目の端で身じろぎする姿が見えるようでみえない。ただ、だれかが同じ空間で同じように本と珈琲を楽しんでいることが包みこむような安心を与えてくれる。  ゆるやかな時間が流れ、気づくと、すっかり夜になってしまっていた。本格的に降りはじめた雪が積もり、窓の外を白く染めて。そこに浮かびあがる黒い服の女性だ。組んだ後ろ手に本を持ったまま外を眺めている。その悲しいような背中へ、穏やかな静けさを破って声をかけなければならないのがつらい。 「すみません。そろそろ帰ります」 「うん? 雪がひどいよ。少し治まるのを待ったらどうかな。ごはんでも食べていきなよ」 「えっと、喫茶店みたいなこともしてるんですか? 食べる場所もないみたいですけど」 「中二階があるの」  そう言われて視線の先をみると、長椅子の後ろの暗がりに小さな梯子(はしご)があった。  案内された中二階は天井が低くて(かが)まなければならなかったけれど、思ったよりも広く、食事用の机と椅子、それに小あがりの和室が設けられていた。隠れ家というか、秘密基地的な雰囲気に胸が高鳴ったのは秘密だ。  なにを作るかは女性の気分によるらしく、料理を選ぶことはできなかった。でも、趣味のようなものだからと一向にお金を取ろうとしないので文句を言うすじあいもない。  当然のように女性も席につき、二人で夕食をとった。食べながら聞いたのは、ここは女性が自分の楽しみでやっている店だということ。あたしの図書館みたいなものね、と笑っていた。お(はし)を遊ばせながら楽しそうに話す。いわく、客は一度に一人しか来ない。いわく、あたしの名前はノハナ、でも、ここでは店主と呼んでほしい。天使みたいだから。  などと店主の話を聞き、食後の珈琲を飲んでいるうちに、どんどん時間は経っていった。中二階から下へ降りた時にはもう遅い時間で、しかも降り積もった雪で窓が埋まっているじゃないか。雪に閉じ込められ、携帯は圏外。店には固定電話もなく連絡もとれない。  困惑していると、まるでそうするのが当たり前のように店主が泊まっていきなよと言う。いたしかたなく、また少しどきどきしながら泊めてもらうことになった。  本当に雪は音を立てるんだと思いながら、その日は中二階の和室に敷いてもらった布団で眠った。店主は別の部屋だ。あたりまえだけど。しんしんと響く音に包まれていると、残念なような、(むな)しいような気持ちになる。  翌朝、目覚めると、朝ごはんまで用意してもらってあった。それで話はおしまい。僕は店を出て家へ帰り、……とはならなかった。昨日からの雪が降り続けており、帰るにかえれない。  翌日もその翌日も降り続け、そのうち店主ともいい仲になったころ、連日の雪がやみ、帰宅できるようになった。どんな仲か? それはまあ想像に任せるとして、正直、帰りたくなかったとだけ言っておこう。僕は店主に別れを告げた。もちろん、またすぐに来るつもりで。 「お世話になりました。また来ますね」 「ふふ、どうかな」  めずらしく目を伏せて寂しそうにしながら、店主の長く白い指が一冊の本を差し出す。 「きみが最初にみつけた短編集だよ。南米の作家は魔法みたいな話を書く。将軍、見事な死体となるとかいいよね。好きだな」 「はい。僕も好きです」 「……その一冊だけ記念にあげる」 「記念なんて大げさな」  笑う僕とは対照的に、店主は真剣な表情だ。さらに、決して振り返ってはいけないと懇願するように言う。店を出てから路地を出るまでに振り返ると(シオ)の柱になると本気で言っていた。そんなわけがないと気軽に外へ出て、ぱっと振り返ろうとしたけれど、だめ! と切羽詰まった声がして、それ以上、否定するようなことをする気にならず、振り返ることなく路地を出た。そして、何事もなく家へ帰った。  そして……。  それからずっとあの店を探し続けている。次に訪ねて行ったとき、そこにその店は無かったんだ。閉店していたとか、更地になっていたとかじゃない。両隣の店はあるのに、その店はなくなっていたんだ。路地も周囲の店も間違いない。それなのに、あの人のいるあの店だけが跡も残さず消え失せていた。  それからも時々その路地を訪ねていくけれど、店は見つからなかった。両隣の店と店の間に無理矢理からだをねじこんでみたこともあるが、ただ僕の服が汚れ、向こうの路地へ出ただけだった。なにかの勘違いかと一帯を探しまわり、電話帳や役所や考えられる限りの調べを進めてみても、結果は(むな)しかった。  唯一、あの人と繋がるのは、譲ってもらった一冊の本と蔵書印だ。他の古書店で売っている本に押されていることがある。  それを見つけるたびに、本の内容や値段に関わらず買ってしまう。僕以外の誰かがあの店に行ったということなのだろうか。そう思うだけで胸が張り裂けそうだ。塩の柱になろうと、振り返ればよかった。帰らなければよかった。蔵書印を見ると、嫉妬とも後悔とも怒りとも悲しみとも、なにともわからない衝動に突き動かされてあの店を探しに行かざるをえない。  そんな悶々とした日々を過ごしていたある時、あの人にもらった本を読み返していたら、落書きに気がついた。いや、気がついたというのはおかしい。こんな落書きなんてなかったはずなのに。そこには、 『探すのはやめて。きみも呪われる』 という文字が浮かびあがっていた。驚いて、他の本、あの店の蔵書印の押された他の本を片っ端から確認する。  それぞれの本にも、これまではなかったはずの文字が浮かびあがっていた。表紙だったり、帯だったり、本文の途中だったり。一冊の本に一つの言葉。その日から僕は取り憑かれたように古書店を回り、蔵書印のある本を買い漁った。断片的な言葉が次第に意味のあるものへと組み合わさっていく。そして、求めたものへ。 『……もし、それでも来てくれるというのなら……の駅で降りて、ヨン番目の路地を通り過ぎて振り向かずにあとずさりすると……。その階段を……。壁に消える扉の前に立って、あたしの名前を呼んでください』  ところどころ虫喰い状態ではあったけれど、あの店への行き方が書いてあった。僕が意図的に伏せて示しているのは言うまでもないが。  たどりついたのは、ディルノという料理屋の裏手、なにかの理由で行き先のない非常階段だ。二階があるはずの踊り場には扉もなにもなく、使いようのない階段だった。それを非常階段というのはどうなのだろうか。  だが、僕は確信していた。この場所だと。  あの人の気配を感じる。混凝土(こんくりーと)で塗りこめられた、そこにあったはずの扉の前で、そこにあるに違いないあの店をおもう。そして、あの人の名前を呼んだ。心をこめて。  周囲の空間が歪んだように感じる。ぐねぐねと足元の影が伸び、手すりの影と混じって立ちあがった。それが黒い扉となり、開いた先にあの人がいた。いてくれた。肩越しに、なつかしい本棚の列がみえている。 「まったく、きみときたら……」  目の端にたまった涙をぬぐいながら店主がいう。黒い服が影の扉に溶けるようだ。 「仕方のない子だね。本当に来ちゃうんだから。ここは過去にも未来にも現在にもなく、ここにもあそこにも、どこにもない古書店なの。私はここから外へは出られない。もう一度入れば、きみも同じことになる。それでも入る? あたしと一緒に呪われる覚悟は……」  と、最後まで聞くことなく、僕は店のなかへ入った。乾いた紙の匂いがする。どこの喫茶店よりもかぐわしい珈琲の香りも。目をつぶって深く空気を吸いこむ様子をみながら、あきれたように店主がいう。 「……愚問だったみたいね」 「ええ。そのつもりで来たんです。あなたの寂しさを救えるのなら。そして僕の寂しさも」  店の奥へ進むにつれて、そっと扉が閉まっていく。あなたの珈琲を飲みたいな、という僕の言葉に店主が応える。もちろん。ここは、あたしの図書館。いえ、いまはあたしたちの図書館なのだから。永遠に。  細くしなやかな白い腕が優しく首に回される。そして、壁の扉とともに本と珈琲の店はその姿を消した。最初からなかったように。 〈幕〉 【あとがき】  最後までお読みいただき、ありがとうございました。さて、作中の本には主人公向けのメッセージが織り込まれていましたが、同様に、みなさまへのメッセージを入れさせてもらいました。よければ暇つぶしにどうぞ。謎解きというほどでもありませんが……。
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