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【奇縁氷人石〈前編〉】
紙が、貼ってあった。
湯島天神のそれが有名だが、もちろん本宮である北野天満宮にもあり、いずれも現存する。奇縁氷人石は、月下氷人石、迷子石、迷子しるべ石など、さまざまな名前で、さまざまな場所に建てられていた。
行方知れずとなった我が子との縁、まだ見ぬ未来の夫や妻との縁を求める切実な想いに応えてきたのだろう。
それは迷信的なものではなく、実際的な意味を持っていたらしい。石碑の左右に、たつぬるかた、をしゆるかた、などと彫られ、迷子や結婚相手を探すための情報交換に使われていたのだという。いまではそうして使う人もいないが、逆に何某かの祈りを込めて使う人はいるかもしれない。橋の袂や盛り場にも設けられていたものであり、御利益などなくて当たり前なのだが。
まだ冷たい風に嬲られ、奇縁氷人石に貼られた紙がパタパタとなびいている。
たつぬる方か。誰かを探しているのだろう。祈りをこめて、いつかの俺のように。残念ながら御利益などないけれど。
「失礼なやつだの」
どこか高慢さのある女性の声がした。自分と同じ二十歳前後だろうか。巫女装束で箒を持ち、境内の掃除をしていたらしい。御利益などない、というのは不味かったな。
だが、待てよ、口には出してないはずだが。そう思い、どう応えるか迷っていると、強い風が吹き、濃い梅の匂いがした。
天神様の和歌を思いだす。
東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
飛び梅は春一番に乗って太宰府へ向かったのかもしれない。そんなことを思う。
「やれやれ、たんに失礼なだけでなく、妄想癖のある馬鹿か」
と言いながら、巫女さんが紙を拾いあげた。よくみると奇縁氷人石に貼られていた紙であり、それを熱心にみつめている。口の悪さとは裏腹に、梅の花の咲く境内に立ち、真剣な眼差しを手元に落としている女性は綺麗だった。
しかし、境内には俺と彼女しかおらず、なにも話していないのに罵倒されているような気がするのは何故だろう。なんとなく気持ちがいい気がするのも何故だろう。
「そこの変態。おかしな目で我を見るな。おかしな耳で我の言葉を聞くな。殺すぞ」
指差しのうえ、完全に俺に目線をあわせて言われた。なんだろう、やばい人かな。
「いや、綺麗な人だなと。なんというか変態ちっくな意味ではなく、梅の花を眺めるように眺めていたわけです」
「……それでも駄目にきまっておろう。我が綺麗だからといって、そう、我が綺麗だからといって、じろじろ見てよいものではないわ」
馬鹿者が、と言いながらも得意気かつ嬉しそうである。
「誰が嬉しそうだ!」
と、また口にしていないことに理不尽な突っ込みを受けたが、そこへ小学校高学年くらいの少年が突っ込んできた。バタバタと走ってきた少年は、巫女さんのすぐわきを走り抜け、奇縁氷人石のまえに立った。
あれ、紙がない! と叫んでおり、どうやらこの少年が張り紙の持ち主らしい。いったい誰を探しているんだろうと思っていると、また巫女さんが心を読んだように言う。
「いなくなった犬を探しとるんだ。やれやれ、そんなもの心配せずとも帰ってくる。人間より、よっぽど賢いわ」
溜息をつくと、手招きして俺を呼びよせる。ふわりと梅の匂いがした。
「いいか、あの餓鬼に教えてやれ。いまから自宅近くの空き地に行け、そこで犬を呼べば出てくるとな」
少年が貼った紙も渡され、個人情報を安易に貼るなと伝えろとも言う。なぜ自分で言わないのか疑問だったが、少年に紙を渡して言伝すると、わかった、探してみる、と応じて駆けだしていった。
「みつかるといいな」
今度は口に出してつぶやいていた。続けて、サクもみつかるといいのに、と詮ないことを思う。サクこと御堂桜。俺の幼馴染で、ちょうどさっきの少年と同じくらい、小学校、中学校とずっと一緒だった。それが……。
「待ち人来たる、失せ物は出る」
ぼそりと巫女さんの声がしたが、振り向いてもそこには誰もおらず、幽かな梅の匂いだけが漂っていた。
実家へ帰ると、どこをほっつき歩いていたんだと怒られた。神社に行っていたこと、そこで綺麗な巫女さんをみかけたことを話すと、巫女なんているわけがないだろうと怪訝な顔をされた。もう何年も神主不在で、村で共同管理しているらしい。じゃあ、俺がみたのは誰だったのだ。物の気のたぐいだとでも?
「そのとおりだ」
と返事がありそうで無く、心の声への返事はどこにもなかった。
もう子どもじゃないのだから、そう心配するなと母親に伝えたが、でも、やっぱり心配なのと涙ぐんだ目で言われては言い返せない。
「神社って、奇縁氷人石のところだろ? あんたはサクちゃんと仲が良かったからね。まだ忘れずにいるのは人として情の深いことだけど、あんたまで連れていかれやしないか心配でね」
「もう何年もまえのことだよ」
「でも、忘れやしないだろ?」
そのとおり、忘れやしない。幼馴染のサクこと御堂桜は、中学二年の夏、神隠しにあったんだ。あの時のことはよく覚えているのに現実味がなく、夢かなにか嘘のように思える。
家も近く仲の良い幼馴染だった。
あの日も、一緒に家を出て学校へ行った。帰りも一緒だ。それをクラスの連中に、恋人か夫婦かと揶揄われた。いま思えばくだらない話だ。思春期まっただなか、男とか女とか、そうしたよくわからないことに振り回されていた。
また一緒に帰ってらぁと言われ、そういうんじゃないとムキになって否定し、サクを置いて一人で先に帰った。その日、彼女は帰って来ず、翌日も、翌々日も、翌月も、翌年も、翌々年も帰って来なかった。
いつものように一緒に帰っていれば……。
サクの痕跡はどこにもなかった。誘拐されたとも思えず、家出など埒外だ。事件か事故か、警察や消防や役場の人も村の人も総出で探してくれたけれど見つからなかった。
ただ、サクの消えた翌日、奇縁氷人石に願掛けに行ったら、そこに縁結び願いとして、サクの名前、その相手として俺の名前があった。彼女らしい丁寧な優しい字で。
その日からずっと彼女を探し続けている。
大学に入って、非公認のオカルト研究会に入ったのもそのためだ。事件や事故じゃない。神隠しなのだと思いたい自分がいる。いつか帰ってくるのではないか、また会えるのではないかと思う自分がいるんだ。
また神社に行ってみよう。もしかしたら、あの巫女さんに会えるかもしれない。サクのことも何か知っているかもしれない。なんとなく、そんな気がしていた。
そうして床に入った夜のこと。
夢のなかで俺の名を呼ぶのは誰だ。ひどく懐かしく、ひどく切ない声がする。はっと目覚めたというのに、まだ声が聞こえていた。……くん、……くん、助けて。探しにきて。
懐かしいサクの声が俺を呼ぶ。
神社へ来てほしい、助けてほしいという声に促され、俺は夜の神社へむかった。ふらふらと夢遊病のようでありながら、妙に意識ははっきりとしている。何をしているのか、どこへ向かっているのかは分かっている。
ただ、自分の意思とは無関係に、体が勝手に歩いているような感じだった。サクの声が導いた社のなか、むっと匂う梅の花の匂いはどこか爛れた様子で、清浄な朝のそれとは違う場所であるかのようだ。
本殿に近付くにつれて足が重くなる。
一段、二段、三段、石段に足をかけて進む。閉じられているはずの扉が音もなく開き、とぐろをまくような闇が流れだした。質量などあるはずのないものに足を取られてしまいそうだ。わずかな月灯りが映しだす屋内は陰鬱で重苦しく、とても神様の住まいとは思えない。
狭い本殿の奥に、鈍く光る鏡が飾られていた。いわゆる御神体かと思うところへ、それがわたしを縛っているの、隠しているの、とサクの声が響く。御神体だなんていって、社に巣食ってるんだ。助けて、……くん。助けて、わたしを助けて。おねがい。
さあ、その鏡を、割って!
鏡のまえに立つ。鏡には、何かに取り憑かれたような鬼の顔が映っていた。それは俺の顔をしていて、俺の顔をしていない。ああ、人は昼と夜とでは顔が違うのか。あの巫女さんも、夜には、もしや淫らな……。
などと余計なことを考えながら拳を握りしめて振りあげ、振りおろそうとした。その俺の額を、パシンと指で弾かれた。
「おかしな妄想はやめんか! 愚か者め」
軽くデコピンをくらわされただけなのに、のけぞるほどの痛みだった。戻した頭に白い手が伸びて、ぱしぱしとほおを平手打ちだ。目のまえに昼間の巫女さんが立っている。
パタンと扉が閉まり、室内に灯明がともった。重苦しい暗闇が散り、気付くと、サクの声が聞こえなくなっていた。サク! サク! と呼ばう俺に向かって気の毒そうにいう。
「残念だが、あれはサクではない。娘を喰ろうた化物が、その声を借りて話しておったのよ」
サクを喰った化物が? しかし、この人はいったい何者なのか。神社に巫女などいないという話だし、そもそも普通の人間じゃなさそうだ。まさか……。
「って、コスプレではないわ! まったく、呑気かつ無礼な輩よ。我こそが神様であるぞ。さあ、恐れ慄け、崇め奉れ」
といったプレイ……。
「ではないわ! もうよい。おぬしの心を読むのはやめだ。話が進まん」
と言って真面目な顔で、こちらに向きあう。自称神様がいうには、本来、神隠しとは子どもを救うものなのだと。危ない目に遭いそうな迷い子らを預かり、無事に帰す。
「しかし、人々の信仰心が薄れ、我の力も弱まった。霊場には悪い気も集まりやすい。それに惹かれた妖に、社の大半を奪われてしまったのだ。口惜しいことよ。夜になれば、我の力が及ぶのは、もはや本殿の奥のみ」
「本当に神様……?」
「こら、突いてみようとするんじゃない。まったく助平な餓鬼め」
「失礼しました。でも、神様だなんて信じられないし、だいたいサクが喰われたというのはどういうことです?」
「その物言いは正確ではなかったな。まだ喰われてはおらぬ。妖に囲われておるが、その糸を通じて我の霊気を送り、サクこと御堂桜を守り続けてきたのよ」
神様もしくは巫女さんの視線の先に、うすぼんやりと光る赤い糸がみえた。それは、俺の足首に巻きついていて、つらつらと本殿の外へ向かって伸びているのだった。
「紅線と呼ばれるものだ。おぬしの心が糸となって現れたものよ。妖に攫われたとて、すぐに喰われはしない。此岸との縁が連なる以上、容易に手出しはできぬのだ。されど、ゆめ油断するなかれ。人々の想いが薄れ、此岸との縁が薄れるのを、妖は、根気よく、用心深く、慎重に待っておる。此岸の者に忘れられたとき、紅線も切れ、サクは妖に喰われるであろう」
逆に言えば、と慈悲深い様相で続けた。
「逆に言えば、何年ものあいだ、忘れることなく想い続けてきたおぬしの心がサクを守ってきたのだ。人の想いは無駄ではない」
「この糸の先に……」
「さよう、サクがいるはずだ。たぐっていけば、会えるだろうな」
との希望とともに、そこに妖もおるわけだが、と付け加えた。
「助けてやりたいが、我は行けぬ。社を守らねばならんし、やつに気取られるからの」
「ええ、そんなぁ」
「あまったれるでない。二人の想いが確かであれば問題ない」
「もし、確かでなければ?」
「……ま、とにかく頑張れ」
「……」
「なんじゃその目は? いいから、さっさと行かんか! 生きている人間が隠された者のことを忘れぬかぎり、喰われることはない。
ただ、飴玉のように魂をしゃぶられておるのさ。おぬしが、何があろうとサクを救いたいと思うならば行くがよい」
無理強いはせぬ、との言葉に腹が立ったのか、背中を押されたのか、俺は本殿の扉を開き、紅線の繋がる先へと足を踏みだした。
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