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ストゥの声で我に返る。
そういえば少し贅沢して、カフェでデートしていたんだ。
「結婚はできない」
「アニュが好きなの。面白いし、料理も素敵。他に好きな人でも?」
僕の料理はテムの力で僕の技術じゃない。
「ストゥだけだよ。でも誰かと一緒になるつもりはない。それに店も辞める」
「何を言うの!? 別れるかはともかく、ずっとヴァニタスで頑張って認められてきたじゃない。他じゃ1からスタートよ?」
信じられないとストゥは目を見開く。
僕は確かに店で将来を嘱望されていたし、普通は転職なんてしない。庭師の賃金は最低限で、10歳相当の見習い賃金の再スタートは自殺行為。休みなく働いても食事の確保も困難。
「でも、決めたんだ」
「引き抜き?」
「ううん、やめるだけ」
目を伏せてつぶやくと、僕の手にストゥの手が柔らかく重ねられた。その熱を帯びた目からは、庭師の誇りが揺らめていた。
「店はやめないで。あなたの料理は世界を変える域に到達する。料理をあきらめないで」
「ありがとう。僕も料理は好きだから」
でも僕はその足で料理長に退職を願い出た。
仕事をなくした僕は、生まれて初めて特権で食材と、予定のなかった便箋を2通買い、テムと過ごした森に足を向けた。
遺言とストゥへの手紙。
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