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この町、虎の噂
学校からの帰り道。
どんぐりのように膨らんだ桜の蕾が雨に打たれて肩を落としていた。生ぬるい風がスカートを揺らす。
私はお父さんのお下がりである味気のない真っ黒な傘を開いて、ひび割れたアスファルトの坂道を下っていた。左側に見えるこの寂れた町を見下ろすように――見下すように眺めながら。
郊外のなにもない町。雨がまるでテレビの砂嵐みたいに町の色を濁している。生まれて十四年も住んでいるけれどこの町にいい思い出はとくにない。では苦い思い出が多いかと言うとそうでもない。なにも不自由なく暮らしていると言える。こういうのを幸せというのだろう。
でも――。
私は一生、このくすんだ町で過ごすのだろうか?
お父さんの仕事を継いで。
風に抗うことなくただ流されて。
この町にずっといる。
……それは嫌だった。
あと一年経ったら、中学を卒業したら、この町を出るというのはどうだろう。それか高校を卒業したら。いや、お父さんが許すはずがない。
ため息をつく。雨の音は漏れる息より大きくて、なんだかひとりぼっちな気がして、ブレザーが妙に重い。
ふとスニーカーの紐がほどけていることに気がつく。大きい傘にすっぽりと包まれるようにして、しゃがんで靴紐を直した。――だから、向こうのカーブから急に現れた人影に気がつかなかった。
「そこの黒傘」
私は驚いたのを隠しながら、傘を少しずらして声の方を――暗い空の方をのぞき見た。
金髪でロン毛で白スーツの男。二十代前半に見えるけれど、顔もよく、東京のホストクラブにいそうな感じ。
それに変なのは、強い雨のなかで傘をさしていない。びしょ濡れだ。
「おい、なに睨んじゃってるの。目つき悪いよ? それになんだか油くさい。これだから田舎はさあ」
「……お兄さんこそ。ここは歌舞伎町じゃないですよ」
「どいつもこいつも俺の職業を勝手に決めてくれちゃうね。俺の身分を決めるのは俺だけだっつうのに」
言いながら男は黒光りしている手帳を投げつけた。慌てて受け取って立ち上がる。警察手帳だ。初めて見た。意外に軽い。名前は加藤真一。
加藤は私からすぐにそれを取り上げた。
「お前ってなんだか、疑い深い目しているよなあ。自信なさげでさあ。学生なのにそれってどうなの? まあなんでもかんでも信じるよりは少しばっかりマシか。とは言っても寂しい人生だよな。……名前は?」
「……山市。山市佳奈」
「佳奈ちゃんね。じゃあ佳奈ちゃん。俺は別に女子中学生に話しかける趣味があるわけじゃない。調査をしに来たんだ」
「調査……?」
「なあ佳奈ちゃん。この辺りで虎を見なかったか」
「はあ……。虎、ですか?」
虎。
タイガー。
動物園でしか見たことのない生き物。
町と反対の右側を見る。雨に濡れて不気味な表情をつくっている森はあるけれど、虎の鳴き声なんては一切しない。当たり前だ。
「噂があるんだよ」
加藤はしずくが垂れる前髪を掻き上げた。
「――どうにもこの坂で虎を見かけたり、坂を通った人があとで虎に遭遇したりするらしい」
「……そうなんですか」
「おいおい。他人事だな。もっと関心を持てよ、佳奈ちゃん」
「私は警察官じゃないんで。虎に興味とかないですし」
「はん。俺も警察官としてやってきたわけじゃあない」
さっき警察手帳だしてきたくせに。
「じゃあなんです?」
「虎を捕まえて金が欲しいんだ。それだけだよ、佳奈ちゃん」
「……?」
虎に賞金でも出ているのだろうか。虎は猛獣だ。賞金が出てもおかしくはないだろう。
「金があればなんだって買えるんだ……命だってな」
加藤は奥歯すり潰すようにして、身体を強張らせた。
「――おっと中学生に話すことじゃないな。まあ、佳奈ちゃん。なにも知らないならいい。……そうだ。虎を見かけたらすぐに俺に連絡すること。電話番号は……これ」
加藤が破ったメモを渡してきた。
「虎から逃げ切れたら電話しますよ」
「馬鹿。逃げてからじゃ虎を見失うじゃねえか」
じゃあどうしろと。
「冗談だよ、佳奈ちゃん。虎に――喰われるなよ」
加藤はそう言うと私が来た方向に歩いて行った。ひらひらと後ろでを振りながら。
「こんな田舎町に虎、ねえ……」
大型犬との見間違いとかだろうとは思うけれど。
私は帰宅モードにシフトして早歩きをする。雨は好きじゃない。いつだってこういう変な出会いがあるからだ。
でもまあ。なんとなく。
「見た目よりは悪い人じゃなさそうだけどね……」
坂を下りきって延々と真っ直ぐ進み、何回か小径を曲がりくねってたどり着いた田舎に不釣り合いな豪奢な家。そのドアを開ける。ただいま、とすら言わずにスニーカーを脱いで自分の部屋に入る。
大きな虎が寝ていた。
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