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兄達の言いつけ通り、ひたすら先生の言うことを聞き、笑顔で過ごしていたら、あっという間に下校の時間になった。手提げかばんに荷物を詰め込みながら帰りの準備をしていると、肩をポンとされた。
「依子さん、一緒に帰ろう?」
「あっ!夏子さん。帰ろう、帰ろう」
私は夏子さんの手を取りながら言った。私達は一緒に手を繋ぐと、教室をあとにした。
朝は兄達と行くから一緒ではないが、帰りは一緒に歌を歌い、おしゃべりしながら帰っていた。
「今日、依子さんすごかったね。人気者だった」
「本当に…あれには、私、驚いた。今日は夏子さんと全然、話せなかったでしょう?だから、誘ってくれてとてもうれしかったのよ?」
クラス中のみんなに話したことは、気づけば、学校中に知れ渡っていた。ほとんど話したことのない同じクラスの子や教わったこともない先生達から話しかけられ、最初は初めて注目される喜びで興奮していた私だが、だんだんと戸惑いを隠せなくなっていた。
「私もよ。…お兄さん達、兵隊さんになるのね」
「…うん。母や父が認めても認めなくても兄達は少年飛行兵になって、お国のために戦うのよね。寂しいけど、兄達の決めたことだし、今日みたいに励ましのお手紙をたくさん書くつもりよ?」
手提げカバンを前後に大きく揺らしながら明るく言うと、夏子さんも手提げカバンを揺らしながら言った。
「じゃあ、兄とあっちで合流できるかもね」
「そうだね。逢ってさ、あーってなって欲しいよね」
「ねっ!あっ…もうちょっとで、着いちゃう」
駄菓子屋の角が近づいてきて、私たちのスピードが極端に遅くなる。駄菓子屋までしか、私たちは一緒にいられないのだ。
「あー…帰りたくなーい!」
「私も…でも、私達、こどもにそんな権利ないからね…あっ、着いちゃったー!」
カタツムリ並みの歩みもついに限界を向かえ、とうとう着いてしまった。
「じゃあ…明日ね」
「うん…また、明日ね」
私達は手を振り合うと、後ろ髪を引かれあいながら私達は別れた。
家に帰ると、母が、いなかった。いろんな部屋を見渡すが、どこにもいない。
ため息をつきながら居間へ行くと、机にメモが置いてあった。
隣組に行ってきます。遅くなると思います。
母
月に1回のペースでやっている隣組。なぜか、母は率先してやっている。
「はい、はい…隣組ね」
私はメモを机に置くと、さっそく遊び始めた。
宿題もせず、絵を描いて遊んでいると、勢いよく戸を開ける音が聞こえた。廊下を歩く音だけでわかる。
(あー…またか。今日も安定の機嫌の悪さ)
母は戦争が始まってから、おかしくなってきた。怒っていたかと思えば急に泣き出し、久しく母の笑顔なんて見たことがない。そして、隣組から帰ってくると、毎回、機嫌が悪かった。
(腹が立つならやらなきゃいいのに…)
そんなことを思いながら絵を描き続けていると、いつの間に私の傍にいたのか、描いていた絵を勢いよく机から払い落とされた。私が唖然とした顔で母を見ると般若のような顔で荒い息を繰り返していた。
「な、なに?」
「ーーーしょう」
あまりにも声が小さくて聞き取れなかった私は耳に手を添えながら集中すると、聞こえてきた。
「ーーーでしょう!学校で勇さん達が志願したこと、話したでしょう!」
「…あー!話した、話した!みんな、勇兄さんと匠兄さんのこと褒めてくれてさ、やっぱり素敵なことなんだって思ーーー」
無事に母の声を聞き取ることができた私は、払い落とされた紙や鉛筆達を拾い集めながら答えた。最後の鉛筆を拾い上げると、机を母が思いっきり叩いた。
「なんで、なんで…そう、おしゃべりなのよ!通りすぎる人達におめでとうございますって言われる度、ずっと苦しかった。あなたに、この気持ち、わかる?」
大きな声で罵られて、頭に地がのぼった私は、母に負けじと机を思いきり叩き、立ち上がると、大きな声で言った。
「わからないよ!お母さんじゃないんだからわかるわけないじゃん!なんで、苦しいの?先生は勇気ある素晴らしいことだって言ってた!」
息が続かなくなった私は呼吸をしながら、母を睨んだ。母も睨み返す。
しばらく睨みあいを続けるうちに呼吸が整った私は、大きく息を吸うと行った。
「最近のお母さん…変!」
そう言い捨てると、私は家を飛び出した。
桜の木に身を預けながら座りこむと、顔を膝に埋めた。母と張り合って無意味に叩いた手が今頃ジンジンしてきて、余計にイライラが募る。
「お母さん…変!」
その頃の私は自分の抱いている感情を言葉で表現できるほどの語彙力を持ち合わせていなかった。私はその時、人間は腹が立ちすぎると、涙もでないことを知った。
日が暮れて、肌寒くなってきた。しかし、変な意地を張っている私は、その場から動けずにいた。すると、大好きな声が聞こえてきた。
「依ちゃん…どこ?どこ行ったんだ…?」
「…いた!勇兄さん、いたよ!依ちゃん、いた!」
「本当だ…よかったー。よかった、よかった」
顔を上げると、兄達が安堵の微笑みを浮かべながら私を見つめていた。あんなに泣けなかったのに、勝手に目が潤んでいく。
「勇兄ちゃん…匠兄ちゃん」
今にも泣き出しそうで、私は、兄達の名前を呼ぶのが精一杯だった。
「暗くなってきたから、そろそろおうち、一緒に帰ろうか」
「…お兄ちゃん達と一緒に帰る」
「よし!…おー!手、冷たくなっちゃったね。早く帰ろうね」
私の手を取り、体が冷えきっていることに気づいた勇兄さんは私の手を大きな手で包み込むと、そう言った。すると、勇兄さんも私でさえも気づかなかった異変に匠兄さんが気づく。
「あれ?依ちゃん、足、怪我しているよ?」
「…本当だ!いつだろう?全然、気づかなかった」
足に視線を落とすと、確かに擦りむいていて、うっすらと血が滲んでいる。
「依ちゃんらしいね」
兄達はそう言うと、笑った。私が照れ笑いを浮かべると、匠兄さんは片膝立ちになり、上着のポケットから手拭いを出した。私が首をかしげると、匠兄さんは微笑んでから手拭いを口に加え、引き裂いた。
「よし!これを巻いて…できあがり!とりあえずはこれで大丈夫だけど、帰ったらちゃんと消毒するからね」
私は頷くと、きれいに巻かれた手拭いにそっと触れた。なんだか温かく感じた。すると、勇兄さんが今度はやってきて、私に背を向けてしゃがんだ。
「怪我しているなら、安静にしないとね。お兄ちゃんの背中に乗ってくださーい」
久しぶりにおんぶしてもらう私は勇兄さんの背中に少しだけ緊張しながら、身を預けると、匠兄さんは私が落ちないようにと私の腰を支えてくれた。
心地よい揺れに眠くなっていると、勇兄さんが言った。
「そう言えば…依ちゃんのことおんぶするの、久しぶりだね。最後におんぶしたのは、いつだっけ?」
「あれは…確か、依ちゃんが2年生に上がるか上がらないかの時じゃなかったかな。ほら、天井のシミが怖くてーーー」
「あー!あった、あった!依ちゃんは覚えてる?」
匠兄さんのお陰で思い出した勇兄さんはとてもうれしそうだ。
「覚えてる!私が眠れるまで勇兄ちゃんと匠兄ちゃんが交代でおんぶして、散歩してくれたもんね」
あの頃は、突然できた謎のシミがこちらを睨んでいるように感じて、怖かったのを覚えている。私は眠る兄達の部屋へ行き、泣きついたのであった。兄達は嫌な顔1つせず、私を背負うと、夜の散歩に繰り出してくれたのだ。
「楽しかったな…依ちゃんとの散歩」
「だね!内緒で家を抜け出したっていうのもあるね。あの感覚はやみつきになりそうだった」
懐かしげな勇兄さんに同意すると、その時の感情を思い出したのか興奮したように話している。
「私ね…まだ、あの天井のシミ、怖いんだ。だからね、頭から布団を被って見えないようにしているの」
「そっかー…依ちゃんはまだ怖かったんだね」
匠兄さんが私の頭を撫でながら私の気持ちを受け止めてくれた。私はいつも気にかけてくれている兄達に心配かけたことが申し訳なくなって、謝った。
「勇兄ちゃん、匠兄ちゃん…心配かけてごめんなさい。兵隊さんになる話も学校で勝手にして、ごめんなさい」
「依ちゃん…。お兄ちゃん達もごめんね。今回のことで、依ちゃんには嫌な思いばかりさせちゃっているね」
優しさと申し訳なさの混じった勇兄さんの声。私は声にならず、首を横に何度も左右に振った。しかし、勇兄さんには伝わらないのか、あたふたしている。
「あれ?よ、依ちゃん?寝ちゃった?」
あまりの慌てぶりに匠兄さんは笑うと、私の代わりに言葉にしてくれた。
「違うよ、勇兄さん。依ちゃんは気にしてないよって首振っているだけで、ちゃんと起きてるよ」
「あっ、なんだ…よかった。具合悪くなっちゃったのかとも思ったから、安心した」
安堵のため息をこぼす勇兄さんに匠兄さんは微笑んでから、私の頭に手を置いた。
「依ちゃん、おうちに帰ったら母も一応は心配していたから、ごめんなさいしようね」
正直、謝りたくなかったが、兄達が私の手当てを終える頃にはすっかり忘れていることを期待して、小さく頷いた。その頷きを見届けた匠兄さんはうれしそうな顔で私の頭を撫でた。家は、もう目の前だ。
家に帰ると、母は台所に立ち、何かをかき混ぜていた。しかし、一切、私達に目もくれない。その間も兄達は、母を気にせず、手当ての準備に忙しく動き回っていた。私が服をくしゃくしゃにしながら居間の真ん中で立ち尽くしていると、縁側に腰かけた勇兄さんがうれしそうな顔で手招きする。
「依ちゃん、おいで?消毒するよ?」
そう言うと、救急箱片手に戻ってきた匠兄さんが苦笑いを言う。
「勇兄さん、手当て大嫌いな依ちゃんは、そんなことじゃ来ないよ?」
「…あっ、そうか!これはこれは、失礼」
そう言うと、勇兄さんは私を抱き上げ、再び縁側に腰かけた。ものごころつく前から兄達に手当てされすぎて、怖いなどなにもないが、体は正直なのか、勝手に勇兄さんの膝から降りようと、動いている。それを見た匠兄さんはうれしそうな顔をした。
「ほらね!依ちゃん、ちょっとお利口さんにしていてね」
その匠兄さんの言葉を合図に、勇兄さんが私を抱く手に力を込めると、匠兄さんは笑顔で消毒液をかけ始めた。
しっかり手当てを受けた私は精神的にも体力的にも疲れ、勇兄さんの膝に顔を突っ伏した。勇兄さんは笑うと、私の頭を撫でながら言った。
「依ちゃん、手当てしてくれた匠に、ちゃんとお礼した?」
「匠兄ちゃん…ありがとう」
勇兄さんの膝から体を起き上がらせると、片付けをしている匠兄さんに言った。匠兄さんは救急箱片手に私の頭を撫でると、言った。
「どういたしまして。じゃあ、手当てもしたし、母にごめんなさいしに行こうね」
礼儀に厳しい兄達が忘れるという奇跡は起こらず、私はこの時、人生はそんなに甘くないと悟った。私が潤んだ目で見上げるも匠兄さんは笑みを浮かべながら首を横に振ると、言った。
「お兄ちゃんも一緒に行ってあげるから、頑張ろうね。それに一度は頷いたんだから、ちゃんと実行しないとね」
私を抱き上げると、勇兄さんに救急箱を託し、有無を言わせず、歩き出している。私が勇兄さんに手を伸ばしながら無言で助けを求めると、勇兄さんは苦笑いを浮かべながら小さくガッツポーズをする。そして、「がんばれ」と口パクして、救急箱を片づけに行ってしまった。
居間から台所は5歩もない短い距離。どうにかして逃げられる方法はないかと考える暇もなく、無情にも着いてしまった。
「はい、到着!さあ、依ちゃん、どうぞ?」
私を床に下ろすと、私の両肩に手を置いている。完全に逃げられない状況になった私は覚悟を決めると、謝った。
「お母さん、心配かけてごめんなさい…」
しかし、母は何も言わない。重苦しい沈黙が流れる。
「よし!依ちゃん、よくできました!ごめんなさいしたから、戻ろうね」
匠兄さんは私の頭を撫でると、私を抱き上げ、居間を出た。
緊張と母への怒りで、またどっと疲れた私は机に顔を突っ伏しながら手をじたばたとさせた。すると、私の頭に手が優しく乗っかる。私は指を掴むと、顔を上げ、手の持ち主を確認した。
「勇兄ちゃん…」
「ん?ちゃんとごめんなさいできたんだってね。お利口さんだったね」
私の頭を撫でる勇兄さんに私は拗ねた目を向ける。
「謝ったけど、何も言ってくれなかったもん…謝る意味なかった」
私はそう言うと、また机に突っ伏した。
「それは、違うかな」
勇兄さんがそう言うと、体が急にふわりと浮き上がった。匠兄さんが、私を膝の上に乗せたのだ。キョトンとした顔で首をかしげると、勇兄さんは私の手を握りながら言った。
「依ちゃん、謝ることに意味がないなんてこと、ないんだよ?確かに自己満足かもしれないけど、人間は気持ちを言葉で伝えられるんだから、今、何を思っているのかちゃんと相手に伝えなきゃ」
その頃の私はまだ半分も理解できなかったが、謝ることに意味があるというのは理解できた。匠兄さんは勇兄さんの言葉に同意すると、言った。
「依ちゃん、謝っても許すか許さないかは相手の自由だから謝ったら許してもらえるっていうのは難しいかな」
それを聞いた私がうなだれると、私の頭に手を置きながら続けた。
「でも、お兄ちゃん達はね、ちゃんと間違えたらごめんなさいができる子になってほしいんだ。お兄ちゃん達とのお約束…頑張れそうかな?」
「頑張る!…お約束!」
私が小指を差し出すと、匠兄さんは私の小指に絡める。私はあいている方の手で勇兄さんの服を引っ張ると、言った。
「勇兄ちゃんも!」
「俺も…?3人でこれはさすがに難かし…そうだ!こっちにしよう」
勇兄さんは手を前に出した。私がキョトンとした顔で大きな手を見つめた。勇兄さんは微笑むと、私の手を取り、自分の手に重ねた。そして、匠兄さんを見る。それに気づいた匠兄さんも私の手に乗せ、兄達に手を包み込まれる形となった。
「これ、なーに?」
「これは大人数でする時の約束だよ?」
それを聞いた私は目を輝かせながら興奮した。兄さん達は顔を見合わすと笑い始めた。
なんで笑っているのかわからなかったが、私も兄達に笑いで参加すると、ようやく落ち着いたようだ。匠兄さんは笑いすぎてこぼれた涙を拭うと、言った。
「あー、面白かった。…依ちゃん、そう言えば、宿題した?」
「…まだ。先生に提出する日記があるけど、やる気でないからやってない」
ちょっと迷いながらも本音を言うと、兄達は微笑みながら私の頭を撫でた。勇兄さんが言う。
「よく正直にお話できたね。お兄ちゃん達も宿題あるから、一緒にさっさと終わらせちゃおう?」
「そうそう!イヤなことは早く終わらせるに限る」
まだ渋っている私に匠兄さんも私の肩をポンポンしながら言った。私達は頷きあうと、卓袱台に宿題を広げ、さっそくやり始めた。
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