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6. 立った耳が告げる
モモンガが飼い主以外に懐くことは稀である。だが斉木さんにはすっかり懐いているように見える。モンちゃんは再びバッグの中に潜る。
「そこが気に入ったみたいだね」
「多分、匂いにつられたんじゃないかな?」
斉木さんはバッグを降ろし、俺に中を見せるように持ち手を開いた。モンちゃんの下には竹籠のランチボックスが見えた。
「何が入ってるの?」
「卵焼きサンド」
「あ」
「一日早いけど」
「俺に?」
「そう。明日もうまく焼けるとは限らないから」
「ありがとう」
「ちょっとお邪魔してもいいかな?」
「あ、どうぞ」
俺は慌てて鉄門を開けて斉木さんを招き入れた。二人が玄関に着いたとき、斉木さんが言った。
「モモンガって卵食べる?」
「分かんない。あげたことないから」
「じゃあ、興味があるのは隠し味の方かな?」
「塩昆布?」
「今日は別」
「何?」
「秘密」
白いサンダルを脱いだ斉木さんは裸足で俺の部屋のグレーの絨毯を踏む。
なにが起きているのか把握しきれない。まずは今日の出来事について斉木さんから納得のいく説明が欲しい。
革張りの二人掛けソファーの端に座った斉木さんは、モンちゃんを乗せたままのランチボックスを出して、ガラスのテーブルにそれを置いた。
俺はモンちゃんを右手で抱えて左手で出窓を閉める。モンちゃんを籠に戻し、その扉も閉めた。大事なシチュエーションをモンちゃんに邪魔されてなるものか。
「さあ、召し上がれ」
斉木さんがランチボックスの蓋を開けようとするのを俺は左手で制した。
「まず、今日のことを説明してくれないかな?」
「実はこれのためなの」
斉木さんはランチボックスを指さす。
「え?」
「美味しい卵焼きサンドを作りたかったの」
「どういうこと?」
「卵焼きって冷めるとふんわり感が無くなっちゃうでしょ」
「そうなの?」
「まさやんは育ちがいいから舌も肥えてるんじゃないかなって考えたら、不安になっちゃって。だから山下さんに相談したの」
「なんで?」
「調理師免許持ってるから」
「そうなんだ」
「さっきの喫茶店は山下さんのお友達のお店。冷めてもふわふわの卵焼きサンドが評判で、うまく焼く秘訣を教わったの。溶き卵を濾し器で3回濾してきめを細かくするんだって。よく熱した卵焼き器に、溶き卵を3回に分けて流し入れながら焼くと、冷めてもずっとふわっふわ」
「そっか」
二人が一緒にいた理由は分かった。だが、あの言葉は? 確かにこの耳で聞いた「好きです!」という告白の言葉。それは未だ宙に浮いたままだ。
そんな俺の気持ちを置き去りに、斉木さんはランチボックスの蓋を開けながら言った。
「どうぞ」
ラップを敷いた上に、長方形の白と黄色の縞々が整然と並んでいる。香ばしいような甘い匂いが俺の鼻腔を刺激する。
斉木さんに促された俺は卵焼きサンドを一つ取って、その端を齧った。卵焼きは3センチ程度の厚みがあったが、まるでパンケーキの様にふんわりと抵抗なく噛み切ることができる。
同じく柔らかいパンとともに甘辛い味と香ばしい何かの風味が口の中に広がる。こんなに美味しい卵焼きサンドを食べたのは初めてだ。一口目を呑み込んだ俺は少し泣きそうになった。
「美味しい」
「良かった。隠し味、分かる?」
「うん。クルミ」
「大正解。おめでとうございます。あと一問正解すると賞品ゲットです!」
その一問とは、もしかしてあの言葉の意味するところ?
上目遣いに俺を見上げた斉木さんは、ゆっくりと話し始めた。
「まさやん、私の耳はよく見てるでしょ」
「うん」
「自分の耳は見たことある?」
「ないけど」
「今、ちょうど立ってるの」
「え?」
思わず左耳を触った。少し熱を帯びているが、立っているかどうかまでは分からない。
「まさやんの耳が立つところ、何度も見てる」
「いつ? 昼休み?」
「そう。二人だけでいるところに、他の男性が入ってくると、まさやんの耳はピンと立つの」
「本当?」
「まさやんの話を当てはめるなら・・・・・・まさやんは、たぶん・・・・・・」
その通りだ。他の誰かに斉木さんを奪われたくない。
「山下さんに『好きです!』って言ったのは? どうして?」
斉木さんはその答えを宙に放った。
「シミュレーション」
「え?」
「バイト始めた時、何度もシミュレーションしたでしょ。もし、まさやんが言ってくれなかったら、私の方から言うしかないって思って」
「あ」
「できれば、まさやんの口から聞きたい」
斉木さんは顔を赤らめながら少し小声になって言った。
「もうずっと待ってるんだよ」
「・・・・・・え?」
なんてことだ。思い切って一歩を踏み出すだけでよかった。いつでも。好きな時に。恰好つける必要はなかった。高価なプレゼントも必要なかった。素直に、思いの丈を言葉にすればよかった。そもそも耳が思いを告げていたというのだから。
今こそ飛び出す時だ。俺はランチボックスの蓋に食べかけの卵焼きサンドを置く。
そして斉木さんの目を見ながら、一音一音はっきりと伝えた。
「好きです。付き合ってください」
斉木さんは静かに立ち上がって頭を下げた。
「はい。お願いします」
その声は、いままで聞いたどんな声よりも印象的で、少女のような清らかさを含んでいた。
俺は斉木さんを見つめながら一歩前に出る。ちょうどその時、音が聞こえた。
チュッ、チュッ。
籠の中でモンちゃんが鳴いているのだ。音の正体を見極めた様子の斉木さんが言う。
「モンちゃんって、こんな風に鳴くんだね」
「うん」
「キスの音みたい」
「そうだね」
どちらともなく二人は唇を重ねた。斉木さんの唇は卵焼きよりも柔らかかった。
「そういえば、余ったクルミがあるの」
斉木さんはランチボックスからクルミの欠片を出すと、テーブルの端に置いた。俺はモンちゃんの籠を開ける。
滑空してテーブルの端に止まったモンちゃんはクルミを手に持って齧る。ピンと立ったモンちゃんの耳は、出窓から差し込む西日を透かして桃色に輝いている。
「私たちも食べようよ」
「そうだね。ありがとう」
二人で並んでソファーに座り、卵焼きサンドを食べる。
「うん。絶品」
斉木さんは自画自賛している。
「耳立ってるよ」
「まさやんこそ」
「あ、もうひとつお願いがあるの」
「何?」
「よかったら『ゆかりん』って呼んでくれないかな?」
驚いた。もしかして俺の心は、すべて彼女に筒抜けなんじゃないだろうか?
俺は耳が火照るのを感じながら言った。
「ゆかりん」
「まさやん」
ゆかりんの耳は綺麗な桃色に染まった。
二人と一匹の影を描く西日はガラステーブルに反射して、キラキラと眩しかった。
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