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1. もしかして
机と椅子が並んだ休憩室にいるのは、俺たち二人だけだ。
向かい側に座る斉木さんは、弁当箱からピンクの箸で卵焼きを取り、口を開けてその一端を噛む。彼女は「美味しい」と思ったようだ。
耳を見ればそのことが分かる。ショートカットなので露わになった両耳が明らかにピンと立っている。
その様子はリスなどが木の実を齧っているときのよう。斉木さんの耳は、集音力をフルに発揮しているに違いない。ご馳走を不意に誰かに奪われないように。
卵焼きを箸で挟んだまま、一口目を呑み込んだ様子の斉木さんが言う。
「耳見てる?」
数日前に同じ指摘をされたので、俺は斉木さんの耳の変化についてすでに説明してある。
「今、立ってる。卵焼き美味しいの?」
「うん。隠し味に塩昆布入れた」
「美味しそうだね」
「あげない」
「いいよ。盗らないし」
「盗られるとは思ってないけどね。それでも耳が立つのは不思議」
「動物的な、本能だと思うよ」
「本能か。まさやん頭いいね。家柄かな? お育ちがおよろしいものねぇ」
俺が成城学園前に住んでいて、両親がともに教員であることを揶揄したような口調。そんな彼女のふざけ方も俺にとっては愛らしい。
俺の名前は雅也。親しみを込めてなのか、斉木さんは俺のことを「まさやん」と呼ぶ。できれば俺も斉木さんのことを「由香りん」などと呼んでみたい。でもそれは叶わない。二人は単なるバイト仲間で、決して恋人同士ではないから。
ここは大規模なコールセンター。アルバイトの俺たちはヘッドセットでお客様と話しながらパソコンを操作し、自動車保険の見積もりを受け持っている。
俺が初めて斉木さんに会ったのはバイト3日目。
30代男性のフロアマネージャー、山下さんと俺は、見積もりの流れを示したフローチャートを見ながら、コンピューター操作や受け答えのシミュレーションをしていた。そのとき通路を挟んだデスクで、お客様と話していたのが斉木さんだった。
彼女の声があまりにも可愛らしいので、俺はどんな女性が話しているのかが気になり、そちらに視線を向けた。
ヘッドセットがやけに大きく見えるのは小顔だからか。飾りっ気のない無地の白いシャツを着ている。
視線を感じたのか、彼女はこちらを見た。俺は慌てて目を逸らし再びシミュレーションに集中しようとした。しかし彼女のことが気になり、何度もコンピューター操作を間違えた。
山下さんにあれこれ注意された後、昼休憩をとるように言われた俺は他に誰もいない休憩室に入った。
しばらくして休憩室に入ってきたのは例の彼女だった。俺を見るなり言った。
「斉木由香です。よろしく。さっき2秒ぐらい目が合ったよね」
斉木さんの言うように、目を逸らすのが一瞬遅れたから2秒ぐらいは見つめ合ったかもしれない。俺は自分のIDカードを示しながら言った。
「村井雅也です。目が合いましたね。」
「偶然だよね?」
「え?」
「もしかして見られてたのかなって思って。変な確認してごめん」
実際見ていたとは言えない。俺は適当な理由でごまかす。
「あ、壁の時計を見ようとして」
「私、自意識過剰なのかなあ」
斉木さんは微笑んだ。その頬にえくぼができた。
俺たちは昼食を取りながら30分ほど話をした。
さっきはヘッドセットに隠れて見えなかった斉木さんの耳が気になる。横に張り出した可愛らしい両耳。
斉木さんの質問に、俺はできるだけ真摯に答えた。
何を聞かれたのかはあまり覚えていない。ずっと耳を見ていたから。それでも斉木さんの方が歩み寄ってくれたのだろう、俺はその日のうちに「まさやん」と呼ばれることになった。
お互い大学生で生活パターンが似ているようで、アルバイトに入る時間帯は二人ともほぼ一緒だった。休憩も一緒になることが多い。
そんなわけで今日も休憩室に二人。
斉木さんは俺が食べている菓子パンを指さして言った。
「栄養偏るよ」
「お金ないんだ」
「ここって、時給いいじゃん。何に使うの?」
斉木さんにプレゼントを買う予定とは言えないので、適当にはぐらかす。
「欲しいものがあるんだよ」
「ふーん」
斉木さんはそれ以上の追及をしてこなかったが、耳を疑うようなことを言った。
「今度、お弁当作ってきてあげる」
「え?」
俺の方を見て斉木さんが笑った。
「耳が真っ赤。照れなくてもいいのに」
「どういう風の吹き回しかと思って」
懸命に取り繕ってはみたが、顔が火照っているに違いない。
「たしか明後日シフト一緒だよね。まさやんのお弁当作るから、好き嫌いがあったら教えて」
好きなのは君だとは言えない。でも口が微かに「き、み」と動いてしまったようだ。
「え? 何?」
「あ、卵の黄身が好きなんだ」
「白身は嫌いなの?」
「白身も好きだよ」
「卵焼きは絶対入れるね」
斉木さんの顔は綺麗な卵型だ。
「ありがとう。じゃあ行くわ」
辛うじてそう言った俺は早々に席を立った。
「なんか用事?」
「ちょっとね」
本当はその場に居たたまれなくなっただけだ。
「午後もがんばってね」
「ありがとう」
俺は休憩室を出た。その辺をぶらぶらして頭を冷やすことにする。エントランス付近まで行ったが、頭はさらに熱くなった。やがて思考はある一点に集約された。
「斉木さんは俺のことが好きなのか?」
その疑問が脳内を駆け巡る。
おかげで午後の仕事はミスの連続だった。
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