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3. 飛べない距離
9月も半ばというのに翌日は猛暑日だった。大学の授業に出ようと、高田馬場駅から歩いてキャンパスに向かった。
古本屋の店先を横目で見ているときだった。俺の耳に焼き付いている声が、数メートル先から聞こえた。
「好きです!」
小奇麗な喫茶店の木製ドアから斉木さんが出て来た。その隣には見知った顔が並ぶ。フロアマネージャーの山下さんが一緒にいる。
なんてことだ。確かに今、斉木さんは「好きです!」と言った。激しく動揺しながらも俺は古本屋の本棚に隠れて様子をうかがう。
山下さんはゆっくりとうなずいた。斉木さんの口角が上がる。
二人は並んで歩道を歩き始める。そのまま遠ざかる二人を目で追っていると、斉木さんは不意に振り向いた。
一瞬、斉木さんの驚いたような顔が見えたような気がしたが、斉木さんに背を向けた俺は、駅に向かって全速力で走り出した。額からしたたり落ちる汗が頬を伝い、そのまま後方へと流れて行った。
斉木さんの言動が俺を混乱させる。明日、俺にお弁当を作ってくれると言っていた斉木さん。それなのに山下さんに「好きです」と告白している。
斉木さんと俺との距離は少しずつでも近付いているように感じていたが、それは間違いだった。俺がモモンガの様に滑空できたとしても、まったく届かないほどの距離がそこにはあった。
心臓の鼓動は早くなる。それでも俺は走ることを止めなかった。
飛べない。
転がるように家を目指した。
駆け込んだ電車は激しく揺れた。
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