序章

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 姉が相手した他流派との試合は全部で十四程、三本勝負で姉は一本たりとも取られることはなかった。  中には師範代と技量伯仲するような猛者もいたが、姉は手際よく一本を取り、おおよそ試合で、不利になることは一度もなかった。  そんな試合が続けば噂も広まっていくもので、次第に姉に試合を挑む者はいなくなっていった。外聞の為に闇討ちを仕掛ける者が出てくるのではと心配もされたが、無用に終わった。  誰もかれもが、二度と姉と向き合いたくなかったのか仕掛けてくる者はいなかった。あるいは負けた腹いせに女を闇討ちしたなどという醜聞の方を気にしたのか。とにかく姉はただ、最強の名を藩内だけでなく遠方にまで轟かせていた。  まさに天眼、史上最強の女剣士。  覚え目出度く、藩上層に名を知られ、父上は剣術指南役に選ばれた。  城勤めの士官ではなかった父上はこれを受けた。  檜垣陰月流は剣術だけでなく、学問も必修の課題としていた。表向きその理念は天を知り、地を知り、我を知ることで、剣は極まるということだった。実際、道場には別に、寺子屋のような学問所を構えており、そこで父上は商人や大工なども相手に、学問を教えていた。  文武共に秀でていたことで気に入られた父上とその門下生は多く取り立てられることになり、ますます檜垣道場は多くの門下生を得ることになる。隆盛ここに極めたり。町で一番の道場となった檜垣道場は、田舎の道場では稀にみる賑わいを見せていた。  そしてそれが絶頂を迎えたのは、りんの婚約相手が次期藩主になるのではないかと噂された辺りである。  父上も否定し、家老たちも肯定はしなかったが、好色者と噂されている次期藩主がりんを求めるのは時間の問題だろうともいわれていたので、誰もかれもがこの噂を本当のことだと信じ込んでいた。  だが、この噂を、我が檜垣道場の名声、いや存続そのものを纏めて斬り捨てたのは、他の誰でもなく姉のりんその人だった。  私には姉のことなど何一つわからない。  軽やかな人だったような気がする。大樹のように決しておれぬ芯を持った人物だったような気がする。蒲公英の種のように吹けば飛んで行きそうな心もとなさもあったような気がする。それでいて、やはりその正体は闇夜に蠟燭の火で照らされた刀の、妖しく光る狂気そのものだったような気もするのだ。  どれが本当の姉上だったのか、もうわからない。  ただわかるのは今をもってなお、こと剣に関しては姉が最も優れていたということ。  まさに天眼、史上最強の女剣士、ということだけである。
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