落掌

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 執刀医の淀みない手捌きに応えるように、長年かけて熟練した滑らかな所作で器械出しをしていく。  メスや鉗子(ペアン)剪刀(メッツェン)をニュートラルゾーンに青年が置く。執刀医が手に取る。  青年の出した器械によって、かつて胎児だったころには自分と一つだった母親の体が切り開かれていく。  その体液を吸って瑞々しくなった器械は、青年の用意した膿盆(のうぼん)へと(かえ)ってくる。  それはまるで極上の芸術画を創り上げるような、(おごそ)かで壮大な営みだった。  表現者としての彼らを励ますように、緑色に光る波形が傍らの箱の中でピッピッと鳴り弾んでいる。  なぜだか彼は執刀医を差し置いて、看護師である自分がこの芸術創作の統率者であるような陶酔に浸っていた。  “大創作会”が終了すると、興奮醒めやらぬ気持ちで青年は、未だ意識のない初老の眠り姫を見下ろした。  彼女を病院(うち)のベッドに繋ぎ止めておきたいという渇望の念が、体の底から大粒の泡となって沸き上がってくるのを、青年は自分でも抑えられなかった。  人目を盗んで点滴の薬剤をすり替えては、昏睡状態を維持した。  老兵を思わせる職務経験と鎧のように身に着けてきた医療知識から、けっして死には至らせず、一方で傍目には原因不明ながら覚醒することのないよう、巧妙に調整することは造作もなかった。  不朽の名画をその手で緻密に複製し続けているかのような誉れに、彼は満ちていた。  真面目一徹の勤務態度を貫いてきた青年が、この生かさず殺さずの技術をほかの患者に適用することはない。  青年が個人的な興味を抱く対象は、この広い世界にただ一人。  ――母さん、やっと待ち合わせ場所に現れたね。これからは、ずっと一緒だよ。うちの病院で、一緒に、いつまでも。  薄暗い病室に、女性を見舞いに来る客はなかった。  病床に備え付けられた黒いモニター画面の中で、上に下にと角を尖らせた蛍光緑色の心電図だけが、鈍い光を放っている。 「今ここに……うちに母さんがいます。これが僕のただ一人の母さんです」  だれにともなく呟いた青年の声は、病室に響く冷たい電子音の中に溶け込んで、やがて消えていった。
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