僕の部屋のくじらたち

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「ねぇ雄大、そろそろくじらを集めるのは止めにしましょう?ね?」 お母さんが僕の両肩に手を置いて言った。 その手に込められた力が思ったよりも強くて、僕は怖くなった。 「いやだ」 強い口調の僕にお母さんはひどく焦った顔をして、両肩にさらに力を込める。 「我儘言わないでちょうだい。ね、良い子だから」 「知るもんか!」 僕はお母さんの手を振り切って、ドンドンと音を立てて階段を登る。 僕の部屋は、二階の一番狭い部屋だった。それでもここは僕の楽園だ。 ここには、僕が生まれてから十年で集めたくじらたちがいる。 壁一面に置かれたラックには大小さまざまなくじらのぬいぐるみが所せましと並び、机にはくじらのボールペンやストラップが溢れている。小さなコルクボードにはくじらのピンで、くじらの写真が飾ってある。 家具やカーテンは青を基調とした色で揃えた。部屋全体を海のようにしたかった。 僕はベッドにダイブをする。お母さんが僕にくじら集めを止めるように言うのは今日が初めてじゃない。でも、嫌なものは嫌だった。 幼稚園に入る少し前、両親に連れられてホエールウォッチングに行ったとき、僕の心はくじらに奪われてしまった。あの大きな身体と水飛沫が忘れられなかった。 それ以来僕のくじら集めが始まった。 家に帰ればくじらたちがいる。 そう思うだけで不思議と幸せな気持ちになれた。 どうしてお母さんはこの気持ちをわかってくれないんだろう? 心にモヤモヤを抱えたまま、僕は部屋の電気を落とした。 暗くなった部屋で、一番のお気に入り、特大のくじらのぬいぐるみを抱えて、僕は眠りについた。 *** 耳元でちゃぷん、と音がして、身体が仰向けのまま、どんどん沈んでいくのが分かった。 くじらを集めるようになって少し経った頃、寝ている間だけ、海の中に行けるようになった。初めは戸惑ったけど、ここはとても良いところだから、戸惑いはすぐになくなった。 むしろ、身体を包む柔らかい海水が僕をいつだって、幸せな気持ちにさせてくれる。 静かで、豊かで、穏やかな、僕だけの青い海。 僕は体勢を整えて、さらに下へと平泳ぎのようにして潜っていく。ひとかきする度に、心が凪いでいくような気がした。 魚たちの群れを追い越して、いつもの場所につくと、十数匹のくじらたちが僕を迎えてくれた。 「やあ雄大、元気だった?」 「うん」 いつもの場所は、岩と岩の間をすり抜けていった先にある大きな空洞のことで、くじらたちは僕の入ってくる場所とは違うところから中に入る。大きな穴が見えにくいところにあって、泳ぎに行く時は僕もそこを通るのだった。 「最近姿を見せないからどうしたんだ、ってみんな言ってたんだよ」 「あんまりよく寝れてなくて」 「そりゃまた、なんでだい?」 「わからない。あ、もしかしたら家のすぐ傍を電車が走ってるからかも」 「まあでも今日はここでゆっくりしていきな」 「ありがとう」 僕はくじらたちと一緒になって、空洞を出て、海を泳いだ。大きなくじらの群れに守られて、エメラルドグリーンに輝く夜の海をゆっくり進んで行く。 どこか行くあてがあるわけでもない。ただゆっくり泳いで、身体中を清めて、息を整えるような感覚だった。 泳いでいる間はくじらたちといろんな話をする。今日あったことを面白おかしく言ってみたり、悲しかった話をしたり、対してくじらたちは敵と遭遇して無事に逃げたときの武勇伝なんかを聞かせてくれる。 「今日、学校で泣いている子がいて、僕はその子を慰めたんだ。大丈夫だよ、って。そうしたら思いっきり引っ叩かれて、すごく痛かった。ねえどうして、僕が叩かれたのかわかる?」 くじらたちはしばらく何も言わなかったけど、やけに神妙な面持ちで僕を見た。そして僕が大くじらと呼んでいるくじらたちのリーダーが僕の前に泳ぎ出た。 「いいか、雄大。その子は多分、自分でもわかってることを雄大に言い当てられて、それがたまらなく嫌だったんだ」 僕は大くじらの言っていることがよくわからなかった。それが伝わったのか、大くじらは泳ぐのをやめて、僕をじっと見つめた。 「例えば、雄大が宿題をしないで遊んでいたとする。そうしたら君のお母さんが宿題をしなさい、と言う。そのとき、雄大はどういう気持ちになる?」 大くじらの説明は僕の中でストンと理解できた。 そんな僕を見て、大くじらは「そういうことさ」と言って、再び泳ぎ出した。 「結局のところ、自分を助けてあげられるのは自分だけなのさ」 「おれっちも敵に遭遇したとき、大くじらに見捨てられたけどよ、結局自力で逃げたからな〜」 お調子者のくじらがケタケタと笑う。大くじらはそんなお調子者のくじらをキッと睨む。 「退散でーい!」と言って逃げていったくじらを見て、どっと笑いが起こった。僕もなんだかおかしくなって、一緒になって笑った。 「それにしても、友達と喧嘩して、仲直りができるかどうか心配で泣くっていうのは、オレたちにはよく分からないね」 僕はびっくりした。 どうしてあの子が泣いた理由を知ってるの? 僕は言ってないのに! 「それはな、……」 突然、大くじらの声が遠くなって、身体が浮いていくような感じがした。まるで見えない糸で空の上から引っ張り上げられてるみたいだ。 もしかして、魚たちはいつもこんな気持ちなのかもしれない。そう思ったら、自分が食べられてしまう、と怖くなった。 「うわぁあ!」 飛び起きた僕の背中は、汗でびっしょりだった。 ドキドキしながら辺りを見回すと、そこはいつもの僕の部屋で、くじらたちもいつもと同じ場所に佇んでいた。 ベッドサイドに置いてあるくじらの目覚まし時計は、深夜二時を指していた。 お母さんももう寝ているだろうし、お水を飲んでから寝よう。 僕は足音を立てないように、階段を降りる。 「私があなたの浮気に気付いてないとでも思ったの!?」 お母さんの叫び声とガラスが割れる音がした。僕は驚いて、階段に座り込む。 「俺がどうしようと勝手だろ!?お前は子供の面倒だけ見てればいいんだよ!」 「私だってやりたいことがあるのに、いつも子供の世話をしてるのよ!あなたばっかり自分の好きなようにして、あんまりじゃない!」 「なんだと!?俺が稼いだお金で生活させてやってんだ!お前が文句を言える立場か!?」 ああ、もう嫌だ。聞きたくない。 僕はやっぱりお母さんにとって邪魔な存在だったんだ。お父さんが僕のことを好きじゃないのは分かっていた。家にいつも居ないし、久しぶりに会っても怒られてばっかりだったから。 でも、お母さんも僕が邪魔だってことは認めなくなかった。認めたくなかったのに! 足音なんかを気にする余裕もなく、僕はドタドタと階段を駆け上がった。部屋の扉を乱暴に閉める。僕は、特大のくじらのぬいぐるみを抱えて泣きながら再び眠りについた。 *** ちゃぷんと音がして、僕はまた優しい、僕だけの海に戻ってきた。 身体が水の一部になったような気持ちだった。涙は海に紛れて、僕はいつもの場所へと向かう。 再び帰ってきた僕をくじらたちは何も言わずに受け入れてくれた。 一緒に泳いで、気持ちを落ち着ける。心がたおやかな海のようになるまで、一言もしゃべらず、泳ぎ続けた。僕の周りを泳ぐくじらたちも何も言おうとしなかった。 「ねぇ、僕くじらになりたい」 僕の小さな呟きをくじらたちは、しっかりと聞いていた。 「それはできない」 「どうして?」 「お前さんはくじらじゃないからだ」 「でも、僕はもう嫌なんだあんなところ。だから僕もくじらになって、ずっとみんなと一緒がいい!」 くじらたちの目が曇った。僕の願いをどう扱おうか考えているようだった。 しばらくの沈黙の後、大くじらが僕の前に泳ぎ出た。 「そんなにくじらになりたいと言うなら、くじらの神様に願うしかない」 大くじらの言葉に、他のくじらたちが動揺が走った。大くじらを止める声も上がっていた。 くじらの神様のことは何度か聞いたことがあった。未だに誰も見たことがないというあの、伝説のくじら。 僕を心配して非難の声を上げる他のくじらたちだったが、大くじらは構わず、僕との会話を続けた。 「くじらの神様はどこにいるの?」 「それは誰も分からない。だから、くじらの神様に会うには、会えるまでひとりで泳いで、ずっと会いたいと願い続けるしかない。願ったところで、会えない可能性の方が高い。それでもいいのか?」 「うん。僕行ってくるよ」 他のくじらの制止を振り払って、僕は泳ぎ出した。 だって僕にはもう、他に方法がないんだ。 *** どれくらい泳ぎ続けただろう。 いつもの場所はとうに見えなかったし、くじらだけでなく、他の魚たちも見当たらなかった。 焦らずゆっくり探すつもりだったけど、心臓は正直だ。ドクドクと鳴る鼓動を感じながら、僕は願い続ける。 どうか、くじらの神様。 僕をくじらにしてください。 ずっとこの海にいて、自由になりたいんです。 叶う確証もないけど、僕は力尽きるまで願い続けた。 いつの間にか身体の疲れも感覚もなくなっていた。僕はひたすら泳いだ。 お願いだから、僕をくじらにして! その声がくじらの神様に届くことを祈って。 *** ふと目が覚めた。 青い壁紙の天井と腕に収まっているぬいぐるみの感触。 僕の頬を涙が伝った。 「……誰か助けて」
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