第4章 それぞれの事情

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第4章 それぞれの事情

 ダンスレッスンの翌日は演技レッスンがあり、その後(かなで)玲佳(れいか)悠理(ゆうり)は残ってマナーの講義を受けた。  内容は芸能界の常識や礼儀、そして危険について事例紹介を交えつつレクチャーするものだった。奏たちはステアーズプロダクションと新しく契約を結んだ三人であり、初めてこの世界に足を踏み入れるということから特別に用意されたカリキュラムであったようだ。  二時間ほどの講義を終えると、奏は気疲れからか思わず大きくため息をついてしまった。  講師からは実例でさんざん脅された。あの人はこんな礼儀を守らなかったから仕事を失った、この人はこんな甘い言葉で誘われて、その結果逮捕されて実刑を受けた、などなど。  隣の悠理は少し青ざめた表情のまま、かちこちに固まってしまっている。 「大丈夫ですか? かなり気が滅入ってしまっているようですけれども」  そんな時に、そう優しく声をかけてきてくれたのは、玲佳だった。 「あ、大丈夫です。すみません」  みっともない姿を見せてしまった、と奏は赤面して謝る。 「謝ることありませんのに」  玲佳はくすりと笑みを見せる。 「ショックでしたか?」 「……はい、怖い世界なんだなって」  問われて、奏は正直に答える。 「そうですね、確かに特異な点もあるのだと思います。けれど、普段当たり前だと思っていた日常から些細なきっかけで道を踏み外す危険は、どの世界にだってあるでしょう?」 「そう。そうですね」  そうだ。奏はそれをよく知っていたはずだった。 「ですから、今日聞いたことで絶対に守らなくてはいけない、と思ったことをきちんと守るようにすれば、それ以上は気にしすぎることはないと思いますよ」  奏と、そして悠理に向けて玲佳が安心させるように言う。 「はい……ありがとうございます」  気を使われた悠理が、少し照れくさそうな表情で頭を下げる。 「あの、雪村さんもそうなんですけど、そんなにかしこまらなくても良ろしいんですよ」  玲佳は苦笑めいた表情を浮かべる。 「そう言えば雪村さんはいつの間にか王生さんとずいぶん打ち解けていらっしゃいましたね」  ふと思いついたように玲佳が言うと、 「確かに、お互いに名前で呼び合ってましたよね」  悠理もぽんと手を打ってそれに続く。 「翔子とは、昨日一緒に練習したから。その時色々話したりして」  なんだか抜け駆けしたようで急に心苦しくなり、しどろもどろになる。 「あら、うらやましいです。私なんて、宣戦布告されてしまったくらいなのに」  玲佳は頬に手を当ててわざとらしく残念そうな表情を作る。 「あれは――翔子は、演技に対する思い入れが強いから」  翔子の想いを知っているから、そんな言葉が口をつく。  今日の演技レッスンで、奏は初めて翔子の演技を見た。伸び悩んでいるという言葉が嘘のように、彼女の演技はかなりレベルの高いものに感じた。身体の動きにはキレがあり、声には張りがあって良く通っていて、表情には迫力を感じた。  それでも、それ以上に凄みがあったのは玲佳の演技だった。華があって、立っているだけでも雰囲気があるのに、それに動きと台詞と感情が乗るともう目を奪われずにはいられなかった。 「四条さんは、演技の経験があったの?」  彼女の演技を思い出しながら、奏がそう尋ねると、玲佳は頷きを返した。 「ええ、高校の部活で演劇部に在籍しておりました。恥ずかしながら出席率はさほど高くありませんでしたが」  真面目そうなのに、何故だろうか。部活以外で――例えば生徒会などで忙しかったのか、家庭の事情か、体調が悪かったのか。いくつか思い浮かぶことはあったが、本人が説明する気はなさそうなので奏はその疑問を口にすることはなかった。 「そ、っか。でも、それを知っていても翔子は納得いかなかったんだろうな」  ぽつりと、思ったことがつい口に出た。でも多分そうなのだ。彼女はきっと、せめて奏たちのグループの中では一番演技が上手い人でありたい、と思っていたはずだ。 「あの、四条さんと王生さんは……」  不安気に問いかける悠理に、玲佳は優しく微笑む。 「大丈夫ですよ。仲違いをしているわけではありませんから。むしろ、少なくとも私としては彼女のことを好ましいと感じています」 「そうなんですか?」  思わず横から問いかけてしまった奏に、玲佳はこくりと頷く。 「ええ、彼女は私にこう言いましたよね。『すぐ、追いついてみせるから』」  その一言だけ。確かに翔子は玲佳の演技を見た後、そう言った。 「すごいな、と思いました。今私が言ってしまうと偉そうに聞こえると思うのですが、こういう時はプライドや意地がおかしな風に出てきてしまうのが普通だと思いますので」  玲佳の言う通り、翔子の言い方は相手が自分より上だと認めた上で、前向きな姿勢を見せるものだった。それは多分自分にも、まわりも良い影響を与えるものだったと思う。 「そうですか」  玲佳の言葉を聴いて、ほっとした様子で悠理が言う。この子も、良い子なんだろうな、と奏は思う。同じグループになったとは言え、所詮は他人事のはずなのに、悠理のその様子には嘘がないように感じられた。 「でも、四条さんは」  奏はずっと気になっていたことを尋ねようと、口を開く。 「どうしてアイドルを選んだんですか? 演技の経験があったのならなおさら、女優でも良かったはずです」  その問いに、玲佳は苦笑いを浮かべる。 「きちんと説明できるような、立派な理由があるわけではないのですが」  そう前置きをした上で、一度口を閉ざして言葉を探す。 「見たい景色があるんです」 わずかな沈黙の後に、彼女はそう言った。 「子どもの頃、アイドルのライブのステージ裏にお邪魔したことがありました。その時、こっそりと裏から盗み見たステージの光景は今でも目に焼きついています。スポットライトを浴びて眩く輝くアイドルたちの背中。そして、見渡す限り一面のペンライトの光の海。この光景を、もう一度ステージの上から見てみたい。忘れかけていたその気持ちを、スカウトしていただいた時に思い出しました」  本人の言葉とは裏腹に、とても理解のしやすい理由だった。納得できる――はずなのに、奏は何か違和感を覚えていた。何か、肝心なものが抜け落ちているような、そんな感覚が拭えなかった。けれども、その正体にはまるで思い当たらず、奏は頭を振ってその疑問を忘れることにした。 「ちなみに、橋本さんはアイドルを志した理由はあるのですか?」  少し話題を変えようとしたのか、玲佳がそんな風に悠理に話を振った。 「私、ですか?」  とまどったように、そう確認した後、悠理はわずかに目を伏せた。 「私は――できるだけたくさんの人に見てもらえる場所に、立ちたかったからです」  それは、とても意外な答えだった。  奏の印象では、悠理はあまり自分に自信のあるタイプではなく、目立ちたいというような性格ではなかった。それは玲佳も同じだったようで、意外そうに目を見開いていた。 「誰か、見てもらいたい人がいる、とか」  するりと、自分の口から漏れ出た言葉に、奏は自分で驚いてしまった。考えて出たものではなくて、本当に直感的なものだった。  悠理は驚いて言葉を失っていたようだが、やがてはにかんだような微笑を浮かべて、静かに首を縦に振った。  見てもらい人が誰なのか、聞いてみたい気もしたが、悠理がそれについて語る気配はなかった。そうであれば、きっとそれは聞くべきではないのだ。  それに、いつかきっとそれを知る日が来る。奏はそんな予感がしていた。
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