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最初に気づいたのは名前だった。
「鳴滝。どうして私の名前は『きごう』なんだ?」
白い壁、白い天井、白い廊下。すべてが白い建物の中の生活で、鳴滝はひざを折って私の目線に合わせた。
「生まれる前から名前が決まっていたからよ。まわりのみんなの名前も記号なのよ。私が決める前から決まっていた名前なの」
鳴滝の説明はわかったようなわからないような。でもこれ以上は聞けないような気がして。
「きごうって名前じゃないよね?」
ため息がもれて、どうしようかといった雰囲気が子供心にも感じられた。
「じゃあ、私たちだけの、秘密の名前をあげるわ。今から『絵里』よ。音が似てるから覚えやすいでしょう?」
「それが私の『名前』?」
頬が赤くなって思わず大声になったのを制される。
「これは秘密の名前なんだから、みんなにばらしちゃだめよ。ね?」
幼い自分の笑顔がそこにあった。
[newpage]
***
ダンダンと銃を撃ち即座に弾倉を替え、また動く的を狙う。
狙うのは頭だ。射撃訓練場のガラス越しに研究員たちが見ているのがわかるし、自分の着ているデータ採取専用スーツが体調データを常に送っているのも知っている。
はじめは体に密着するスーツが気持ち悪かったけれどもう慣れた。
昔はよく文句を言って鳴滝を困らせたものだ。
「エル、基本Dタイプ訓練終了そのままBタイプにうつる」
ヘッドセットからモギの声が聞こえてきて一瞬目を閉じ気分を切り替える。
目を開けた。
「準備」
銃を替えゴーグルを赤外線関知スコープに替えた途端、プログラムが変わったのを実感する。
「開始」
ヘッドセットからの声が聞こえるやいなや的の動きが変わる。今度は的から赤外線疑似弾が飛んでくるので油断できない。
「どう、エルは」
ヘッドセットの向こうで声がする。確かレン担当のタナカ博士だったか。眼鏡が不気味に光る人だ。最近は訓練中にヘッドセットの音声を聞き取ることにも慣れた。
「ごらんのとおり順調ですよ」
モギは事務的に答えてはいるがどこか誇らしげで、なにがそんなに誇らしいのか私にはわからない。
「エルは昔鳴滝が勝手につくった試作品なんだよねー。僕が作った試作品のレンの方が性能はいいと思うんだけど。運動性能なんか飛び抜けて高くてさ、あのスペックには誰もかなわないんだよ。でも寿命が短いのが気に入らないって言っちゃってさ、喧嘩しちゃったんだよね。ははは。機密保持の問題があるのにねぇ。模擬戦でもやらせてみる?」
「いやいや、さすがにあなたのところのレンにはかなわないんじゃないですかね」
ふたりとも口は笑っているけれど、眼鏡が光っていて表情が読めない。タナカ博士がちろりと自分を見る。
「どちらにせよ彼らはプロトタイプ。出来上がりが楽しみですよ」
博士たちはみな、こんな訓練中でもお互いの反応を探るようなしゃべり方をいつもしていて、その方が絵里には不気味だ。それとも、人が会話するときというのはああいうのが普通なのだろうか? 自分が鳴滝と話をするときはそんな雰囲気ではなかったのに。
と。
模擬弾が肩をかすめかけて絵里はすんでのところでかわす。
「なにしてる、集中しろ!」
モギの罵声が飛んできた。確かに博士たちに気を取られていたから、これは怒られても仕方がない。ぐっと息を飲んでもう一度集中する。
「エルもかわいいじゃない。普通の女の子みたいで。理知的な顔してるし。僕はスキだけど」
私が疑似弾をよけそこないかけたのを嘲笑するかのように、忍び笑いをしながらタナカ博士が言うのに、モギは、
「知略を巡らせる行動には向いてますよ」
とだけ返す。
「スペックが高いってそれだけでわくわくしちゃうよね」
モギはなにごともなかったかのようにタナカ博士の言葉を流す。
しかし行動を開始した途端、
「レンが暴走した。即刻制圧にあたれ。射撃訓練場Bだ」
という訓練中断のアナウンスが入って的が動かなくなると、出鼻をくじかれた気分になって私はほんの少しいらついた。
制圧ということは実弾が必要だということだ。絵里はゴーグルを外すと、そのまま銃を交換して隣の訓練場に向かった。
「レンは制御不能、とりあえず制圧しろ」
ヘッドセットから聞こえる博士の声に、
「了解」
とだけ答えて息を整える。レンのいる部屋の扉をほんの少し開き、その後一気に部屋に転がりこむ。と同時に実弾が飛んでくる。
これはまずい。
レンの行動制御だけではすまないだろう、と心の中でなにかが告げる。状況把握のために、ほんの少ししかない物陰に隠れつつレンの気配をさぐると、レンの目はすでに常軌を逸しておりこれを確認した瞬間、制圧にかかることにした。
まずは腕だ。銃を撃てなくして行動を制限する。
手首を狙って撃ったあとすぐさま、
「レンは処分。これは任務だ」
とヘッドセットから指示が入ってくる。了解、とひとこと声に出すと、すぐさま銃口をレンに向け直した。一瞬の隙をついて銃を放つ。まずレンの眉間に一発。次にのどと心臓を狙う。
血を噴きだして倒れたレンに、反撃を警戒して構え直したがさすがにそれはなかった。
「任務完了」
私の言葉を聞くやいなや、
「レンを回収、バックアップを」
「しかし実用可能筐体はもうありません。試験段階のものしか」
「その中で一番実用に近いものでいい」
という、だれかの感情のない声がヘッドセットの向こうから聞こえてくる。レンは肉体的バックアップ、つまり次の体があって、一体が駄目になっても、いままでのデータを新しい脳に移しかえている。このせいかどうかはしらないが、よく暴走を起こす。何回目だろうレンを『処分』するのは。
「またレンの暴走かー。パーツの用意も大変なんだよね。また調整しなきゃ」
タナカ博士がため息混じりに言うのが聞こえてくる。
「欠点だな。エルにその可能性は?」
「エルはタイプが違う」
モギは誇らしげにそう言った。ただ、
「鳴滝さえ生きていれば、私がエルなんかを担当しなくてもすんだのだがね」
と小さく付け加える。タナカ博士も反応する。
「作られてしまったものはしょうがないよね。作った人間が責任をとらされるのはよくあることだし。僕だってレンの調整は大変なんだよー」
どこかあざ笑うような感じがふたりの言葉の端にのるのが、私には気に入らない。
「訓練中断、フィジカルデータ精密採取にうつります」
とホシノの声がしたのに私は正直ほっとする。慣れたとはいえ、さすがに生身の人間を殺した直後に銃の訓練はしたくない。思いしらされるのだ。この銃の訓練は人を殺すための訓練だということを。人を撃つのには慣れた。けれど、鳴滝が教えてくれたこととは反対の行動をとっていることに実際嫌気がさしてもいた。鳴滝はいない。母と呼ばせてくれた鳴滝はもういない。レンを殺すために私はここにいるわけじゃない。けれどここにいる以上私は道具だ。『エル』という名の道具。ホッタがつけてくれた『絵里』という名前は、もう誰も呼ばなくなった。『エル』は記号の呼び方だから、人間味がないから、と鳴滝がつけてくれた名前。
目の前には血の海に沈んだレンが横たわる。回収員がレンの体を持ち上げ、運んでいく。残されたのは、血の海。
もう何回『レン』を始末しただろう。
あと何回『レン』を始末すればいいのだろう。
しかしこの研究所にいる以上この生活は続くのだ。自分たちが試作品であるという事実は曲げようがない。こんな生活はもう嫌だ。
「エル、なにをしている、データ採取だ、早くしろ」
声が聞こえる。絵里はきびすを返して血の海をあとにした。
地下は嫌いだ。窓がない。廊下を歩いていても感じるあの圧迫感が嫌だ。外の景色は奇麗だと思う。あふれる緑と青い空は憧れそのもの。食堂の窓から外を見た。実は食堂にいるのが結構気に入っている。建物二階分吹き抜けになっていて、なんだかとても気持ちがいいから、意外と落ち着いていられる。だから絵里は暇を見つけてはふらふらとここに立ち寄ることが多い。今日も食堂で何回目かのお茶を飲んでいると、新しいレンが入ってくるのが見えた。今までより少し幼い顔と華奢な身体がなんだか初々しい。
「もういいのか」
やぁ、とレンはくすっと笑う。
「もうもなにも僕はまっさらだよ。順調もいいところさ」
今までのレンとなにか違う。こんな表情を見せたことはなかった。雰囲気だろうか。警戒心がわきあがる。絵里は一瞬だけ眉をひそめる。
「やっと僕に順番がまわってきたんだ。よろしく、エル」
レンの笑顔になにかが潜んでいる。
「レン?」
「君の部屋に行こう、エル」
それだけ言うとレンは歩き出した。レンといえば無表情なのが当たり前だ。判断力という自我はあるけれど、感情という自我を持たないもの、それが『レン』だから。けれど今目の前にいるレンは、なにかが違う。横に立つレンの違和感これはなんだろう。背中に冷たいものを感じて恐る恐るレンの気配を探りながら歩く。慣れた建物の中だから道に迷うこともない。今までにない違和感の正体はなんだ?
「大丈夫だよ、僕は処分されるときの記憶は持っちゃいないんだ」
絵里の態度を見透かすかのようにレンは口早に言う。まるで、他の誰かに聞かれることを恐れているかのようにさえ思える。黙々と進んでいくふたりに声をかけるものはいない。それでも行動を監視されているかのような視線が刺さることも度々あって、二人はエレベーターを使わずに階段を使って部屋に向かった。部屋に入ると、レンはなにも言わずに端末を叩きはじめた。私の苦情はいっさい無視したままで、黙々と端末を叩いて、数十分してようやく手が止まった。
「端末ならレンの部屋にだってあるだろう」
絵里はあきれた顔を隠せないで、でもできるだけ軽く言ってみたが、レンの行動に不審を持っていることを悟られないよう努力するのが精一杯だった。ところが彼はそんなことは一切気にした様子もなく悪びれずに、
「僕の部屋の端末じゃ見れない情報も見れるかと思ったんだ」
とさらっと言ってのける。
「あのな、私たちは同じ試作型で、つまりは実験品、同じ立場なんだから重要機密が見られる訳ないだろう」
「それもそうだね」
レンは考えこむようにあごに手をやってみせる。いきなり人間臭くなった彼に目が離せなくなっていた。今までと同じ柔らかそうな栗色の髪。なのに受ける印象がまったく違う。ふとなにかに気づいたかのようにレンは私を見た。
「なに?」
ついえらそうな口をきいてしまうのは私のくせだ。
「まさかとは思うけど、この部屋監視カメラついてないよね?」
「私の見たところではないな」
「じゃあいいんだ」
あからさまにほっとしてみせる。眉をひそめざるを得ない。
「お前誰だ?」
レンは声をあげて笑った。
「なにを言いだすかと思ったら。僕はレンだよ。いまさらなにを」
「違う。今までのレンと同じじゃない」
知らぬ間に後ずさりをしていた。それをみてレンは口の端だけをあげて微笑んでみせる。
「やっぱり気づかれちゃうんだ。監視カメラがなくてよかったよ。博士たちがうっとうしいからね。そう、僕には自我がある。君と同じくね。僕は突然変異なんだ」
レンの目の輝きがまるで突き刺さってくるようで絵里には怖かった。あきらかに今までと違うはっきりとした意志を持った瞳は絵里のすべてを見透かすようだ。
「僕は今までの『レン』とは違う。自分の意志を持ってる。僕は君がうらやましいんだ。……殺したいほどにね」
レンはゆっくりと絵里に向き直りそっと腕に手を伸ばした。緊張のせいか触れられたとたんに肩が震えた。
「どうしてって顔をしてるね。当たり前じゃないか。だって君は『長命種』だからさ」
絵里は表情がこわばるのを感じていたが、どうにもできなかった。
[newpage]
***
警報が鳴り響いた。耳と身体に芯から響く嫌な音。箱庭の現実から『外』へ行こう。道具としての自分の場所ではなく、私が私でいられる場所を探して。
そして怖かった。あのレンのまなざし。今まで処分してきたレンは兵器としてだけの人形だった。けれど今度は違う。自分と同じ自我を持ったレンが暴走したとき、これまでの人形と同じように自分は彼を処分できるだろうか。そんな自信はない。確かに自分は特殊な生を受けているからいざとなれば人殺しをする場合も往々にしてある、ということは自覚している。けれども、それは実戦になればという話であって、おそらく自分にその機会はないだろうと思う。試作品なのだから、基本はデータ採取が優先されるはずだ。自分が生き延びるため以外の目的で人を殺すという事態はまず起こらない。毎日訓練している爆弾の処理も、銃器の扱いも、格闘術も、基本は量産型レンへのデータ採取用だ。
なのに、もしかしたら意志を持つレンを制圧、処分なんて事態になったら私は正気でいられるだろうか。
絵里はただひたすらレンが怖かった。思わずドアに手を伸ばしていた。焦る手でセキュリティ・ロックを外し、窓を破り、警備員が駆け寄ってくる中を走り抜け、壁を越え、車を奪取する。幸か不幸か、訓練してある身にとってみれば数少ない警備員など制圧するのにさほど時間はかからない。遺伝子から設計された体だから、反射速度も筋骨組織も普通の人間よりはるかに強い。それがこんな形で役に立つなんて不思議な感じがする。
外へ。外にでたい。自分を探しに行きたい。レンは突然変異で意志を持つようになったと言った。では自分は? この欲求はもう誰にも止められない。
雨はただひたすらに絵里をぬらし続けていた。
しとしとでも、土砂降りでもない、傘さえ持っていればなんとかしのげる、しかし傘を持つ腕さえもぬれてしまう雨が、傘を持たない絵里に降り注いでいた。
「さむ……」
私は思わず自分を抱くように両腕をまわしていた。研究所の中で耐寒訓練をしたことはあったけれど、実際の雨がこんなに動きにくく、寒いものだとはまったく想像していなかった。
現実は厳しい。
白く煙る自分の吐く息を見ながら、絵里はパブの軒下で雨宿りをしていた。中に入ればいいのにとなにげもなしに見ていく道行く人々の視線が痛い。
無茶をしたせいか頭が痛かった。体力が消耗している。しかし回復する術が無い絵里にはどうしようもなかった。立っているよりは座っているほうが少しでも消耗が抑えられるのでしゃがみこんでみる。けれど跳ね上がった雨が頬にあたって、それはそれで辛い。道がアスファルトでよかった。これがぬか道だったら、と思うと我ながら情けなくなる。
いきなりパブの扉が開いた。
「先にでてるわよ」
中に声をかけながら出てきた女は、降りしきる雨を見て、
「まだやまないのかぁ、やんなっちゃうなぁ」
とひとりごちた。彼女は傘を開こうと視線を下げたところで私に気がついたようだ。ゆっくり近づいてくる。
「ちょっとあなた、具合でも悪いの?」
しゃがみこんでいる絵里にこころもち体をかしげながら心配そうに声をかけてくる。その姿は本当に心配しているらしくお人好しなのはまず間違いがない。そこへ連れの男が出てきた。
「美晴、なにしてるんだ?」
「和志ちょっと」
美晴が振り返りざまに連れの男に声をかけようとしたところに、
「鳴滝、忘れ物!」
と店内から声がかかった。ピクリと絵里の体が反応して、聞き覚えのある名前に思わず顔を上げた。和志が店に戻っていく後ろ姿が目にはいる。
「おーサンキュ。じゃあまたな!」
和志が声を張り上げながら店内に手を振ってから出てきた。そこに美晴が待っていた。
「なぁに、また忘れ物? そろそろボケが始まったのかしら」
「言ってろ。で、なんだ?」
「この子具合が悪いみたいなの」
私の視界に和志が入った。
「びしょぬれじゃないか。どうしたんだ?」
この男もお人好し。私は漠然と認識する。平和な世界に暮らしている人なのだろう。違う世界の人間という言葉が頭に浮かんだ。この人たちは少なくとも敵ではない。瞳の輝き方が違う。敵ならばもっと眼光が鋭いはずだ。
「あなた、中には入らないの?」
美晴が声をかけてくる。絵里はしゃべらずにただこくりと頷いた。
「知り合いは?」
顔を横に振る。なにを言葉にしていいのかわからない。なぜなのかもわからない。
「お金は?」
再び顔を横に振る。
「もしかして、行くところないの?」
こくりと頷くと、美晴と和志は顔を見合わせた。沈黙が流れる。
「こんなにぬれちゃって。顔色悪いわよ」
「大丈夫ですから」
こう言ったときすでに美晴の手が額にあった。振り払う余力もない。
「やっぱり! 熱までだして!」
「大丈夫」
立ち去ろうとしたとき、世界が揺れた。
気がつくとすぐにあたりの気配をさぐってみた。まず人気はない。額の上にぬらした布がおかれている。存在を主張する重さの掛け布団はいったいどれくらいの枚数をかけられているのだろう。今度ははっきりと目を開けて辺りを見回してみる。見たことのない部屋。落ち着いた色の調度品が並ぶ中に大きな画面。端末にしては大きい。ということは映像モニターだろうか。
扉の向こうで人の気配がして感覚を研ぎ澄ました。廊下を歩く足音がして扉が開く。
「あ、目さめたんだ? よかったぁ」
嬉しそうな声を出しながら美晴が近づいてくる。あぁあの時のと思ったとき美晴の手が顔に近づいてきて、私は体を硬直させた。
「警戒してるのね」
一変して美晴から悲しい声が出ていた。
「大丈夫、熱を見るだけだから安心して」
声色に嘘は感じられないのでおとなしくはしていたが緊張は高まっていた。美晴は硬直した私の額に手を当てると、ふうっと一息ついた。
「よかった、熱は下がったわね」
安堵のほほ笑みを見せて手を離し、私に警戒を持たせないためか一定の距離をとってから立ち上がった。
「ちょっと待っててね。もう少ししたら和志が買い物から帰ってくると思うし。それまでの間にお風呂でもつかってきなさい」
「お風呂?」
私にはその言葉がわからない。体を起こしながら疑問をぶつける。
「お風呂ってなに?」
美晴が私を信じられないと言って凝視する。
「お風呂はバスタブ。お湯が入っててね、それにつかって心と体をリラックスさせるのよ」
きょとんとしている私に美晴は軽くひとつため息をつく。
「わかった、こっちいらっしゃい。ひととおり説明してあげる。っと、あなたなんて名前だっけ? 私は美晴。鳴滝さんちの美晴さん。美晴って呼んでね」
バスルームの方へ招きながら軽い調子で美晴が言ってみせるのは、こちらの緊張をほぐそうとしているのだろうか。
「私は絵里。鳴滝は母の旧姓だ」
鳴滝という名前を自分に関係ある名前として名乗ったのは、これが初めてだった。懐かしい名前。自分の設計者。自分が認めた、母と呼べる人の名前。
「名字は同じなのね。じゃ、絵里って呼んでいい?」
美晴の無邪気な笑顔が妙にまぶしく感じるのはなぜだろう。言葉をなくして頷きながら視線を落とすと、自分の着ているものが違っていることにようやく気がついた。
「あぁ、あなたの服びしょぬれだったから着替えさせてもらったわ。今洗ってるから。とりあえずパジャマでごめんね」
「ここは?」
「あたしたちの家よ。和志とふたり暮らしなの。だから今はそんなソファーベッドしかないけど勘弁してね」
私は改めて部屋を見渡した。壁の下半分はダークブラウンの木板が張られており、その上は白い壁紙。家具はどれも壁のダークブラウンに統一したかのようなものばかりで、窓際には濃い緑色のカーテンがかかっていた。見慣れた蛍光灯の色はなく、柔らかな白熱色の電灯が間接光として部屋を照らしている。今はカーテンが開いて、外からの光が入ってきているので昼間だということがわかるが、閉めていたら昼でも夜でもわからないだろう。今まで体験したことのない色合いの部屋の中は、思った以上に落ち着いた。差し出されたお茶を口に含むとそれは体中に染み渡るようだった。生き返るような感覚を味わったような気さえしてくる。
「さ、あったまってらっしゃい」
私からコップを受け取ると、美晴はバスルームの扉を閉めた。
お風呂のお湯を見て、私は昔を思い出した。そういえば、昔鳴滝にこっそり外に連れ出してもらったときに、お風呂に入ったことがある。忘れていた。
お湯を手ですくって流れるのを見ていると昔を思い出す。大きなスーツケースの影に隠れて車にのりこんで、鳴滝の家で大はしゃぎしたあの時。秘密を共有したようなひそかな楽しさ。一緒にはいったお風呂はお湯のしぶきが気持ち良かった。タオルでつくった空気の袋からぶくぶくと泡が漏れてすぐにつぶれてしまう、タコ坊主という変な風船。ゆっくりながらも髪を乾かしてくれた優しい手。形が崩れてしまったと笑顔のおまけ付きのオムレツ。枕を並べてもぐって一緒に寝た布団。それらのそばにはいつも鳴滝の笑顔があった。お湯のようにあたたかな記憶。ぴちゃんとお湯がはじけて落ちる。
そうか、こんなこともあったんだ、と思考速度の落ちた頭で考えた。お湯にお風呂場の明かりが反射してぼんやり揺れている。お風呂につかるって、こうやって心をリラックスさせる効果があったのかと気づかされる。いつもシャワーだけだったから気づかなかった。そもそも研究所にはシャワーしかないから仕方がないのかもしれない。水面に映る明かりはなんだか頼りなげで、でも暖かくて、こんなことを考えてしまうのかもしれない。
お湯からあがると、抱えていた辛いことさえ流れ落ちていくような気がした。
体を拭いていると、人の気配が増えた。一瞬にしていつもの自分に戻っていくのを感じる。さっきまでののんびりした感覚は、もはやない。必死に耳を凝らして気配をさぐる。今踏み入られたら立ち向かうには不利だ。ぱたりぽたりと髪から水滴がしたたり落ちる。
息を殺しているとどうやら美晴の同居人らしい声がして、声の調子ものんびりとしているのを確認してようやく一息つく。
追手じゃない。と安堵の息を漏らしてようやくまともに体を拭きはじめた。美晴の用意してくれた下着を見て、はたと我に返った。自分の持っている下着にはこんなものついていなかった。言葉としては知っているのだ。これがレース、というものだということを。だが、そういうものがついている下着を自分が付ける羽目になろうとは予想していなかっただけになぜか緊張してしまう。顔が赤くなっているのがわかる。こんな予想もしていなかった場面はどうも勝手が違って対処に困る。常に平常心であれ、という言葉をここで思い出すことになろうとは意外だった。
とりあえず用意されたパジャマをきてリビングに戻ってみると、にこやかな和志の顔が待っていた。
「よぉ、起きたか」
横からふわり、とタオルが頭にかけられると、それは美晴だった。
「髪、まだ濡れてるわよ」
笑顔のふたりに迎えられて、緊張が一気にとけていく。邪気のない雰囲気が充満しているのを察知して、この人たちは敵じゃないんだ、と安心する。
「へぇ、きれいな髪」
美晴が驚嘆の声をあげる。
「絵里の髪って奇麗ねぇ」
言われて私はびくついたが、内容が奇麗という言葉だったのでほっとする。しかし自分の髪の色を奇麗だと思ったこともないし、言われたこともないので面食らいはしたが、美晴は本当にそう思っているようで、悪い気はしなかった。
「ん、どうしたの? 黙りこくっちゃって」
美晴の言葉になんと反応していいかわからず黙ったままの私に美晴が笑いかける。
「そんなこと言われたのはじめてで」
「そう? 自信持っていいわよ。あなたの髪は奇麗よ。こういうときはありがとうって返しておけばいいのよ」
「あ、ありがとう」
消え入りそうな声でつぶやく。これは感謝の言葉。そんなことも忘れていたなんて、と自分を恥じ入る。顔も赤くなっているのが感じられる。
「君も鳴滝なんだって」
コーヒーを飲み干して和志がつぶやくと、私は固まってしまう。
「あぁ、私が話したのよ。大丈夫、心配しないで。彼は和志。彼も鳴滝よ。彼と私は夫婦でね、ふたりとも鳴滝。あなたも鳴滝。どこかで縁があったりすると面白いわね」
茶目っ気たっぷりに笑う美晴は自分より年上なのにどこか可愛かった。笑顔がまぶしくて少し落ち着いた。
「ここどこですか」
「あなたと出会った場所から徒歩二十分、てとこね。それが?」
うまくすれば、自分の『足跡』が消えているかもしれない。
「会ったのはいつ?」
「ゆうべよ」
雨が降っていたから犬の鼻は役に立たないはずだ。
「私をここに連れてきたことを誰かに言いました?」
「言ってないわ」
美晴は表情を変えないまま言葉を続け、和志は肩をしゃくってみせた。
「そんなに警戒しなくてもいいよ」
「お前は誰だ?」
和志の言葉がカンに障ったのか、絵里は視線を和志に向け、部屋の中をぐるりと見回した。
「そう警戒しなさんな。僕は単なる一般人だよ」
そう言って和志は口の端で軽く笑うとコーヒーのおかわりをコップに入れた。
「そうよ。和志はぜんっぜん危険でもなんでもないから安心して」
美晴が私の肩に手をかけようとした途端、私は彼女の手を無意識に避けた。美晴は手の行き場を失って空をつかむ。
「強調しなくてもいいだろう。なんだか僕って情けない男みたいじゃない?」
「頼りにしてますって」
美晴は和志にウインクしてみせる。そんな様子がなんだかおかしくて、私は思わず笑ってしまった。
「お、やっと笑ったな」
和志の顔にも笑顔がこぼれる。その笑顔はなぜか鳴滝を思いださせた。大丈夫だ、この人たちは敵じゃない。もう一度そう認識してようやく私はソファに腰掛けた。美晴の笑顔が本物になる。
「これは?」
机に置かれたバッジを見つけて私の声はまたこわばった。
「絵里の服についてたバッジよ。服は洗ってるから外したんだけど。まずかったかな?」
「いえ、大丈夫です」
私は見覚えのあるバッジを見て言った。しかし、その中にひとつだけついているはずのないものがあった。
「あの、これ全部ついていたんですか?」
「そうよ?」
これは、発信器だ。研究所からつけられているはずのものは外してきたのに、別の発信器がまだついていたのか。私は自分のうかつさを呪った。何度もチェックしたのに、それをかいくぐるような位置につけられていたとは。
「いえ、なんでもないんです。ただこのバッジ、気に入らないんで捨てちゃってもいいですか?」
「絵里だっけ。名字が同じってことはもしかして親戚かもね。和志知ってる? お母さんの旧姓が鳴滝なんですって」
美晴の声に、和志は顔を上げる。
「あ、親戚だと? 見たことないけどなぁ。絵里、お母さんの名前は?」
彼女を親と他人に言ってしまっていいのだろうかと私は逡巡したが名字を彼女の名前にしてしまった以上どうしようもない。
「鳴滝は、母は、杏子です」
絵里が口にした名前に、和志はあんぐりと口を開けた。
「あー、それ、おばだわ」
うわ、とつぶやきながら和志は額に手をやった。
「あたし知らないわよ? 会ったこともないし」
美晴はカップを持ってリビングに戻ってくるとそのまま腰を下ろした。
「うん、その、まぁ、絵里の前で言うのも悪いんだけどさ、ちょっと有名だったんだ」
和志は私を見ずに、コーヒーだけを見て話を進める。
「親戚づきあいもなかったし、どこに住んでるのかさえ知らせてこない人だった」
「だったって、亡くなったの?」
「そ、ある日突然死亡通知が実家に届いてそれでようやく消息がつかめたって訳だ。まさか結婚してて娘がいたとはな」
和志はカップを置くと、ようやく顔を上げて私に向かって手を差し出した。
「僕たちはいとこってことだな。よろしく」
血のつながりなんて本当はない。私は和志の差し出した手を見つめながらほんの少しだけ唇をかむ。
「絵里?」
和志の笑顔がなぜだか心に痛い。が、それを口にすることはできない。いとこだと偽ってここに住まわせてもらえれば隠れることができる。そんなことを瞬間に計算してしまった自分を笑顔が責めているような気がする。それでも隠れる場所は必要だ。
「あの、しばらくここにおいて頂いてもいいですか?」
「なんだ、家ないのか」
「住むところ、なくなってしまって」
心のすみが痛い。
「そりゃかわいそうに。だったら早く連絡くれればよかったのに」
「連絡先がわからなくて」
自然とうつむいてしまう。
「美晴、いいか?」
和志は美晴に視線をうつす。
「ここまできて追いだすなんてひどいこと言うようなら離婚するわよ」
「ということだ。よろしく絵里」
「ありがとう……ございます」
思わず涙がこぼれた。和志の差し出した手は行き場を失って、そのまま絵里の肩をたたいた。
[newpage]
***
僕の最大の弱点は短命種であるということだ。
レンは考えながら端末を操作していた。薬を一定時間ごとに飲んでいなければすぐに寿命がきてしまう。けれども僕は薬のありかを知らない。知らされていない。薬は配給されるものだからだ。薬がほしい。生きるために、生き延びるために、薬がほしい。なによりも薬の製造技術がほしい。手に入れば僕はここでなくても生きていけるのだ。培養液の中で聞こえていた研究者たちの言葉をおぼえている。どうやら他は意識がないらしいのに、自分だけがあるのが不思議だった。けれどそこにエルが歩いているのを見つけた。彼女も実験体らしいことは会話でわかる。自分と同じくらいの大きさなのに、何故培養槽の外にいるのか不思議で、言葉の端々から彼女は長命種だとわかった。
鳴滝の特別実験体。薬を飲まなくても何十年と生きられる身体。僕にはないその寿命。
だけどなんだかずっと見ていたい笑顔を彼女は持っている。彼女と話をしてみたい。彼女と一緒に笑ってみたい。培養槽のなかからうすらぼんやりとした意識で彼女を見つめてきた。エル、君はどんな人なの。どんな風に笑うの。僕より長い寿命をどう使うの。僕にできないこと、僕の持たないものを君はどう使うの。エルの部屋で手に入れた情報と、自分の端末で手に入れられる情報を比べてレンはふっと自嘲的な笑みを漏らした。
「エル、君にはつきあってもらう」
エルにつけておいた発信器が役に立つだろう。データベースを不完全なデータで書き換えていくだけの存在であるのは嫌だ。『自分』の経験は『自分』に書きこんでいきたい。脳裏に自分のバックアップたちが浮かぶ。人工羊水に浸ったカプセルの中の大勢の僕とデータ。あれをなくせば、僕は僕になれるだろうか。耳には自分のたくらみばかりが響く。こんな自分は嫌だ。しかしこれもまた自分なのだ。こんな僕はなくなってしまえばいい。そうもいかないところがこの世の不条理。生まれちゃったものは仕方がないけれど。肩を小さくすくめてみても端末は相変わらず無愛想で、無機質な表示しかしない。僕はこんなものになったりしない。研究所を脱出するときの作業は当然カムフラージュしてあるから、ばれるにはもう少し時間がかかるはずだ。
表通りの本屋で地図を手に入れて、発信器の示す方角を目指した。
「再会だよ、エル」
[newpage]
***
発信器は壊した。誰がつけたのだろう。標準装備の方は外してきたのに。作り自体は簡単だった。けれど不気味で仕方がない。おもちゃのような、それでいて無機質に追いつめてくる影のような存在。ここもいてはいけない場所になってしまうのだろうか。せっかく安心できるところを見つけたと思ったのに。食器の洗い方を教えてもらったところだというのに、発信器のことを考えていてまた皿を割ってしまった。
「なにか考えごとしてたんでしょう。仕方ないわねー。ま、いいわ。割れちゃったもんは買い直せばいいんだし。じゃあ、気分転換ついでに今から買いに行こうか」
エプロンを外しながら美晴はいつもの笑顔で話しかけてくれた。美晴の笑顔が今の私にはとても嬉しく、まぶしく、守りたい。
「はい。すいません」
ちょっと肩をすくめて笑ってみせると、
「よし、上出来!」
とほめてくれる。
「出かけるのかぁ? だったら僕のコーヒー豆買ってきてくれない?」
呑気な和志の声が見送ってくれた。
「あー。外は気持ちいいなぁー」
マンションをでたところで美晴は大きく伸びをしてみせた。家の中がそんなに窮屈だったとは思えないのだが。
「やっぱ一日に一回くらいは外の空気を吸っておかないとね」
「なぜ?」
「ん? 体の空気も入れ替えるの。そうしたら元気がわいて出てくるのよ」
「そんなものですか」
「うん、そんなもの。さ、行こうか」
美晴は歩きだした。美晴の気に入っているショッピングモールまでは電車に乗らなくてはならない。駐車料金が高いとのことで車はあっさりと却下されて、私はまたもや未知の体験をすることになった。電車に乗りこんでみて思わず吐き気を覚えた。人が多すぎる。閉じられた空間になったこの状態で襲われたらどうしろというのだろうか。テロを仕掛けるには格好の獲物ではないか。そういえば知識として教えられたことがあったように思う。今まで移動は車でしかしたことがないのですっかり忘れていた乗り物。発想がすぐにそっちにいってしまうのは長年しこまれた習性だから仕方がないにしても、とにかく人の多さに困惑した。
「美晴」
「なに?」
「どうしてお金と時間かけて遠いところまで食器買いに行くんですか? 近所のスーパーや駅前のショップで適当なものが手に入るのに」
人に疲れたとは言えずに、それでももうひとつの疑問をぶつけてみた。
「あら、食器は大事なのよ? それで食事するんだから。どんなにおいしい料理を作っても、食器が適当だと風味が損なわれることだってあるのよ。気に入った食器で食べてこそおいしいのよ。わかる?」
「はぁ」
わかったようでわからない美晴の説明はそれでも彼女のポリシーであることはわかったのでこれ以上異議を唱えるのはやめにした。
「絵里の服も買おうね」
「私これ以上いりませんから」
「なに言ってんの。全っ然足りないわよ。服を探すのは時間がかかるからちょっとずつ買い足していこうね。せっかくですもの、楽しまなくちゃ損よ」
「そういうものなんですか?」
「そういうものよ。あ、そろそろつくわ。一応、迷子になったときの合流ポイントだけは決めて行動しようね」
[newpage]
***
レンの視線の先には絵里と美晴がいた。美晴の動作を見ていれば切符の買い方を覚えることくらいわけはない。路線図を見て頭にたたきこむ。顔を隠すために帽子も買いこんで、さりげなく距離をとってレンは電車に乗りこんだ。と同時に吐き気がする。
なんだ、この密閉空間は。
思わず手を口に当てて吐き気をこらえながら、知らぬ間にエルと同じ感覚にとらわれたまま、レンは尾行を続けた。見知らぬ女と談笑しながら買い物をしているエルが、まるで別人に見えて、レンはいらつきを覚えた。僕にはあののんきな行動は無理だ。行動をトレースして周りに不審がられないようにするのが精いっぱい。そんな自分がなんだか急に情けなく思えて自分をかきむしって壊したくなる衝動をなんとかこらえる。こんな思いエルはしたことがないんだろうか。自分が自分でなくなってしまうような恐怖と焦り、心の中が真っ黒な空洞になってしまうどうしようもないさみしさ。誰かが側にいてくれないと壊れてしまいそうな、心の叫び声が聞こえる。
[newpage]
***
人ごみの中で商品を選ぶということそのものになれていないまま絵里は行動していたのでやたらと汗をかいてばかりいた。持ってきたハンカチは既にぐっしょりとしている。これで汗を拭くのはもう勘弁してもらいたい。そんな中、美晴は鼻歌でも出てきそうな雰囲気で絵里の服を選んでいる。
「これは?」
「あの、私にはよくわかりません」
「うーん。なんだかなぁ」
「すいません。あの、ほんとにこういうのってわからないんです」
絵里にはどの服が自分に似合うかというのはまったくの管轄外なのだ。困った。ただそれだけだった。
「あの、おまかせしますから。適当でいいですから」
私にとっては精一杯の言葉でも美晴はどこか納得しない。しかし絵里にしてみてもどうしようもなくて、余計に汗をかく結果になるのだった。
「じゃあねぇ、まず三着。OK?」
「あ、はい」
「靴も買ったし、食器買いに行こうか」
自分用に用意された荷物で手いっぱいの絵里には、袋の紐でただただ手が痛かった。安堵のため息を心の中で漏らして美晴のあとをついていく。
とんとん。
肩になにかがあたったんだろうかと思いそのままやり過ごす。すたすたと歩いていく美晴を人ごみの中追いかけるのはなかなか難しい。美晴は歩いているのに追いかけるこちらは小走りだ。荷物もかさばし人にぶつかるしとにかく歩きにくいことこの上ない。
とんとんとん。
誰かの手が肩を叩いた。今度はなかなかやめない。少しいらだちを覚えて勢いよく振り返ると、
「うわあっ」
という声と共に栗色の幻影が揺らめいた。
私がついてこないのを気にして美晴が戻ってきたが、事態はそれどころではなかった。振り返りざまに思わず私の荷物が大きく揺れた。それをよけようとして、誰かがこけた。私にわかったのはこれだけだった。荷物に驚いたせいで声が上がったのだろう。戻ってきた美晴とともに私が目にしたのは、少年が床にしりもちをついている場面だった。
「ったく、ひどいなぁ、この人ごみの中でそれはないだろう?」
ほこりを払うようにして彼は立ち上がると私の目をじっと見据えた。
「あいたかったよ」
感心がないのか、まわりの人々のざわめきはすでに普通に戻っていた。
[newpage]
***
冷や汗か、脂汗か。そんなものが絵里の背中に流れた。思わずきびすを返そうとしたところに、
「ひどいなぁ、置いていかないでよ」
と追い討ちがかかった。
「レン、どうして……」
「絵里、この子誰?」
絵里は彼を美晴に紹介できずに口ごもった。なんと紹介していいのか。動けずにいるのをどう感じたのかはわからなかったけれど、人目も気になり始めていたので美晴はこの場所からとにかく移動しようと提案してきた。絵里にはこんな場合の対応はどうしていいかわからない。
「僕はこれでも、結構勉強してきたんだけどなぁ」
そう言って不満を口にしながら無邪気にふるまう姿はまるで普通の人のようで、絵里は混乱するしかなかった。
「よし、お目当ての食器買って帰ろうか」
美晴はふんわり笑うとそう言って立ち上がった。
「ちょっと、待ってください」
「なに?」
ふんわりとした美晴の笑顔はすでに反論を許さないものになっており、絵里にはどうしようもなくなっていた。美晴の顔にはレンを連れて帰ると書いてあったからだ。当然購入する食器の数も絵里とレンの二人分。あまりの警戒心のなさに美晴を真剣に心配してしまう。
[newpage]
***
「あ、やっぱりこのあたりだったんだね。ここから先はわからなくてさ、どうしようかと思ってたんだ」
無邪気に笑うレンが発信器をつけた張本人らしかった。研究所にはここがばれていないとわかってほんの少し安心する。けれどレンが目の前にいるという事実は全然安心できるものじゃない。そんな二律背反が絵里の動きをぎくしゃくさせていた。帰ってきてからも割ってしまうお皿の数は減らなかったし、ふとしたはずみにお茶はこぼすしで、もうどうしようもない。なんだってレンを家になんか連れて帰ってくる気になったんだろうか。自分も同じように拾われたクチではあるのだけれど、疑問をぬぐい去ることができなくて、でもなかなか聞き出すタイミングがつかめなくて、絵里はもどかしく部屋のなかをうろうろしていた。
「とにかく、だ」
和志が何杯めかのコーヒーを飲み干してそういうと、カップを机に置いた。ピリピリというよりビリビリしていた空気を破ったのは和志だった。
「完敗だ。いとこ君がさらに登場か。君もここにいたらいいよ、レン」
そんな安易に、と抗議の視線を私が向けたのに対して、
「大丈夫だよ、エル、僕は大丈夫」
レンは言い放つ。
「だったらその、エル、っていうのやめてくれないか。私の名前は絵里なんだ」
「いいなぁ、名前かぁ。僕はレンっていうこの名前しか持ってないんだ。うらやましいな」
挑戦的な私の物言いにもレンはのほほんとかわしてみせる。
「絵里、絵里、ね。間違えないようにしなくちゃ。僕絵里と一緒にいられて嬉しいんだ」
にこやかに、ぶつぶつと口元で繰り返しながら名前を覚えるレンを見て、ぷいっと外をにらんだ絵里の肩を、美晴が抱いた。
「どうしたの?」
本人のいる目の前ではいいにくく、ためらったところで美晴がキッチンに誘った。
「和志、コーヒーおかわりいれるわ。みんなの分もいれるから、絵里、手伝って」
「どうしたの?」
「こわいんだ」
「こわい? あの子が?」
こくん、と頷く私が実年齢より幼く見えたのか、美晴は戸惑ったようだった。
「大丈夫よ、あの年ごろの男の子は急に大人になったりするものよ」
そう言って私と目を合わせてから、ね、とウインクを決めた。そのウインクは不思議と力があって、私を安心させる。
そうだ、今はひとりじゃない、この人たちがいるんだ。彼らの名前は鳴滝。母と同じ名前を持つ人たち。母と同じだけの信頼をよせるにふさわしい暖かい人たち。あぁ、今、ホッタがここにいたらどんなにかいいだろう。一緒にお茶を飲んで、談笑して。
「レン、どうしてここに?」
震える心を必死に抑えて聞いてみた。この問題が最優先事項。
「僕はね」
レンはすうっと息を吸った。
「薬がほしいんだ」
これだけ言って黙ってしまう。
「薬?」
三人は異口同音に言ってからレンを見た。
「覚せい剤なんか、うちにはないぞ」
ぶっきらぼうに和志が言うのを見てレンは声をあげて笑った。
「あはは、そんな薬じゃないよ。僕のほしいのは『テロメア活性剤』だよ」
「テロメア活性剤?」
美晴にはなんのことやらさっぱりわからない。私はぶっきらぼうに言葉を口にする。
「私、そんなの持ってない」
「いきなりなんなんだ」
「つまるところ、生命維持に必要な薬のことだよ」
「そういう話をしてるんじゃない」
「そういう話だよ。化学式なんかの詳しい話は置いておいて、とにかく僕はその薬が無くちゃ生きていけないんだ。物理的にね」
「あの支給されている薬のことか?」
「さすが絵里。やっぱり知ってるんだ」
「私には支給されてない。だから持ってない」
「そうか。そうなんだ。『長命種』はうらやましいね」
ふっとレンの顔に影がよぎったのは気のせいだろうか。
「なんだ、その短命とか長命とかいうのは」
「あきれた、絵里はなにも話してないんだ。でも、やっぱりうらやましいよ。絵里、当然盗聴器なんかはないよね?」
「確認済みだ」
物騒な単語にあんぐりと口を開けた和志と美晴にレンは話を始めた。
「OK。難しいことはおいておいて、僕は例の薬が無いとすぐに寿命がきてしまう。絵里は薬が無くても生きていられる。僕は死にたくない。だから『薬』がほしい。それだけのこと」
「でも、今日の『薬』は?」
「研究所で一ビン頂戴してきたから、しばらくは大丈夫さ。言い換えると、ビンが空になったら僕はおしまい、ってこと」
「なんだなんだ、人の命ってのがそんなに簡単にどうこうされてたまるもんか」
和志はコーヒーを飲むのも忘れて異を唱える。
「絵里、いい人のところにいるんだ。いいな」
「あなたもよ、レン」
美晴の助け船にレンは軽くほほえむ。
「ところが、研究所では簡単なものなんだ。僕たちは非合法に生まれた人間だから、人権はない。テロや戦争用に作られた特殊工作員だから。任務が終われば機密保持のために破棄、つまり殺される。そういう命なんだ。だから長く生きる必要がない」
「なにそれ」
美晴が二人を見るが、絵里もレンも目を合わせようとはしない。それはレンの言葉を肯定しているのと同じことだった。
「僕たちはそんな生活が嫌になった。ただ道具として生まれた命なんて嫌なんだ。そして僕は絵里と話をして笑ってみたかったんだ」
「だから脱走してきたんです。すいません嘘つきました。でも鳴滝は私を娘と呼んでくれました。これは本当です」
レンの言葉を私がつぐ。
「私たちは道具じゃない。ちゃんと自我を持った生き物だから、道具として扱われるのには我慢がならない。それは兵器として生まれた者としては失格なのかもしれないけれど。でも嫌だった」
「君たちはいたってまともだと思うよ」
そんなレンと一緒にしないでくれと私は一瞬思ったがどうしようもなかった。
「私たちの話信じるんですか? こんな変な話を」
「変な話か。確かに突拍子もないな。僕たち普通の人間の感覚とはかけ離れてる話だ。まさしくおばさんのどっぷりつかっている世界だな。君は確かにおばさんの娘だよ。でも僕は君らの目を信じる」
「目?」
「そう、目だ。僕だってヤクにおかされてとんでもない妄想の話をするやつらくらいは見たことがあるし、年相応の苦労もしてきた。そして、だ。君らの目は狂信者の目じゃない。なにが本当かわからないとき、僕は僕の勘を信じる。僕の勘は君らの目を信じる、と言ってる。大丈夫、僕は君らを軒先で凍えさせておきはしないよ」
ふうっと肩の力が抜けた。ぽふとソファにもたれ掛かる。
「絵里、和志が信じてくれたんだ、君も僕を信じてくれるよね?」
レンの目は真剣そのものだった。研究所で感じた突き刺さるような光はもう見えない。彼の心をやわらげるなにかがあったのだろうか。
「薬ってどうやって手に入れるんだ?」
「君の端末を見ただろ。あの端末はやっぱり僕の端末とは違っていて、僕が入れない区間の地図もあった。そしてそこに薬の保管庫への道があったんだ」
「まさかあそこに戻るのか?」
「本当は戻りたくない。できるならどこか別のところで薬を合成して、そこから供給を受けられればいいと思ってる。僕は僕の薬に余裕のあるうちになにか手を打っておきたいんだ」
「薬ねぇ。しかもテロメアときたか」
「和志?」
「ん? ああ」
美晴の声に和志は口を開いた。
「テロメアは、細胞活性というか、簡単に言えば細胞の寿命を決める鍵みたいな奴でな。テロメアが長いうちはいいんだが、年をとるとだんだん短くなってくる。これが老化を引き起こすんだ」
「よく知ってますね」
「うん? ああ、これでも一応大学で分子生物学やってたからな」
私とレンのさぐるような視線にものおじもせず和志はぶつぶつと思い出しながらつぶやいた。
「でもその薬をどうやって作るかだな。どの細胞のテロメア長を調整するんだ?」
「そのデータは、僕たちもほとんどわかっていない。だからデータは、ハッキングをかける」
「ハッキングって。こっちの居場所を突き止められるんじゃ」
私の恐怖にも似た驚愕をレンは笑って返してきた。
「最近は便利なものがあるんだね。ネットカフェだよ。踏み台もいくつも用意して潜入するんだ」
「レン」
「絵里、君にももしかしたらこの薬の技術は役に立つかも知れない。絵里だって、僕に比べれば長命だというだけなんだし。僕はやるよ。僕は、僕の命をつかむんだ」
驚いて声もでなかった。レンがこんなしっかりとした考えを持っていたなんて。
「僕は研究所の中ではただ死をまつだけの存在だった。でも今こうやってここにいる。それだけのことでも僕にとっては大きな進歩なんだ。しかも、横には絵里、君がいる。僕がどんなに君に会いたかったか、君にわかるかい?」
なんて答えろと言うんだ。
「驚いてるね。僕も驚いてるよ。この平和な部屋はこんなにも心を静かにさせてくれるんだね」
レンの瞳には優しい光が宿ってきている。これが学習効果なのか? そしてその声は私の心に深く染み入ってくる。いままでにない不思議な感覚だ。なんだろう、目が離せない。
[newpage]
***
「ねぇ、和志」
寝室で美晴が和志にささやいた。
「あの子たちが言ってた薬なんて、素人考えでもそんなに簡単に手に入るものじゃないと思うんだけど」
「あぁ。薬か。しかも、極秘中の極秘ときてる。市販薬の合成じゃ無理だ。それこそ国立の遺伝子をいじくってるところにいかなくちゃ製造は難しいだろうね。いくら技術だけ盗んでもな」
「それってかなり無茶なことなんじゃないの?」
「でも、そうしなきゃレンは死んでしまうんだろ。目の前でみすみす死なせるやつもいないよな?」
「だけど」
「なんだ?」
和志は美晴を引き寄せてキスをする。浅く、軽く、そして深く。
「和志が無茶をしそうな気がするから心配」
「多少の無理はしなきゃだめだろうね」
「薬なんてどこで作るつもりなのかしら」
「さぁ。なにはともあれ技術が先だと考えているんだろうよ。確かに一理あるな。そこはそれ、いざとなれば昔のつてでも頼ってみるさ」
「非合法なんじゃないの?」
「それは言いっこなしだ。僕は、あの子たちを助けたくなっちゃったんだ。それだけだ」
「もう、和志ってばほんっとにお人好しなんだから」
[newpage]
***
「とにかく、できるだけ時間を稼ぐ。マシンは別の場所で確保して、僕と絵里それぞれから、それぞれに研究所にハッキングをかけるんだ。踏み台は今さがしてる」
レンは一気に言い切った。
「わかった。潜入用のプラグラムは一般で使えるだけのやつだと弱いから、ちょっと細工してある。見かけは一般のと同じだけど、中身は特別製だから安心してもらっていい」
「絵里、そんなことできるのか。うちの会社にほしいくらいだな」
和志が茶化しても、それに気づいていない様子で、それを見た美晴は奥の部屋からなにかを持ち出してきた。
「これ使ってみる?」
三人の視線を集めたものは、超小型トランシーバーだった。免許のいらない、イヤフォン式の至極簡単な市販品。
「これなら、使っても足はつかないと思うんだけど、どうかな」
「レン、これ使わせてもらおう」
「了解。これで同じネットカフェじゃなくても話ができる」
レンが笑顔で美晴からトランシーバーを受け取ろうとして、足がふらついた。
「レン?」
「大丈夫、多分急に立ったからふらついただけだよ。それより、作戦実行まであとどれだけかかる?」
「明朝実行可能」
「とにかく、複雑なプログラムを組んでいる時間はないから今夜一晩でなんとか作る。これで更に時間が稼げる。データチップは?」
「さっき買ってきた。これを各自携帯、店員に気づかれないようマシンに接続。データ転送が終了次第撤収」
「了解」
「それと念のため、備品の指紋は消しておこう。自分の指紋だけにしておく」
「了解」
「では明朝」
[newpage]
***
「あの子たちの口調、ちょっと変じゃない?」
口火を切ったのは美晴だった。
「ん? ああそうだな。あれだろ、特殊工作員の実験体とか言ってたから、そっち方面の言葉づかいなんじゃないか?」
「う……ん。そうなのかぁ。ああいうのを聞いてると、私たちとは違う世界に生きてきた人間なんだな、って思い知らされる気がして、辛い」
「だんだん変わっていくさ」
「だといいね」
「明日か。なにごともなくすめばいいな」
「うん。おやすみ」
[newpage]
***
とん、とレンは薬のビンを机に置いた。
「レン?」
置かれたままのビンを見つめるレンを、絵里はいぶかしんだ。なにやってるのかまったく見当がつかない。それにしても、この微妙な感覚はなんだろう、なんだか懐かしいような気がする初めての感情は。
「これはここに置いていく。帰ってきたときに無いと困るから」
「街中で落としたら困るの間違いだろ」
「そう。割れて中身がこぼれても困るから」
「大きいビンだからね」
「そういう意味じゃないんだけど」
「わかってる」
絵里もビンを見つめた。
「初めてだね」
「え?」
布団を並べている中、レンが言葉を漏らす。
「こんなの初めてだ。なんだかどきどきする。そっち寄ってもいいかな」
「なに?」
「うん、ちょっと」
レンは体をもぞもぞと動かすと私の体に寄り添うように横たわった。
「うん、やっぱりこっちの方があったかいや。絵里は暖かい」
「なんだいきなり」
「なんでも。こういうの、やってみたかったんだ」
なんだかかばってあげなくてはいけないような気さえして、絵里は戸惑うしかない。
「背中に手まわしてもいい?」
「ああ」
甘えてくるレンの行動は、同時に絵里の甘えでもある。そういえば鳴滝に張り付いて離れたくなかったことがあったっけと思い出す。これはレンのみたされなかった願望の現れなのか?
「絵里。人の体って、暖かいんだね」
「な、なにを言いだすんだいきなり」
私は赤面する。だって、するだろう普通。ちょっとまて、感情がおさないんじゃなかったのか。おい、なんかちょっと違うぞ。
「別に変な意味じゃないよ。それとも、絵里だから暖かいのかな」
レンは私のあごを引きよせると軽くキスをした。
「え?」
「親愛の情。おやすみ絵里」
「ばか」
「僕はずっと、絵里のそばにきたかったんだ。それだけだよ」
「ちょっ、いきなり言われても困る」
「わかってる。でも僕は怖いんだ。この不安をどうにかして静めるために君が必要なんだ」
このままでは自分がバラバラに砕けてしまいそうな訳のわからない不安衝動がレンの心を占拠していたが、彼を現実につなぎ止めるのはただ絵里だけだった。
仕方なく私はぎゅっとレンを抱きしめた。
[newpage]
***
ネットカフェはがらがらに空いていた。
「絵里、状況は」
イヤフォンからレンの声が入ってきた。
「セッティング完了。指示出しは任せる」
「了解。時計を合わせよう。今ヒトマルサンマルになる。五、四、三、二、一、ゼロ」
「完了」
「ではこれより十分後、アタックを開始。ハックデータは研究所の薬の成分一覧、配合比、製造方法、及び所内見取り図」
「了解」
「踏み台は各自適当に」
「了解」
「ハッキング終了次第連絡、即撤収。駅前にて人ごみに紛れ、一時間したら戻る」
「了解」
通信を切って時間を待つ。セッティングは完璧だ。
「アタック」
レンの声とともに、潜入を開始した。次々に踏み台をこえて研究所に向かう。
レンの狂気の理由ってなんだったんだろう。絵里はこの緊迫した状況の中ふっと考えた。感情を持たないレンは不安定だった。感情をもって出てきたレンはかえって安定しているように見えるしなじみやすい。最初は驚いたけれど、今は違和感さえ覚えない。これが本来のレンの姿だと言われたら納得してしまうだろう。それほどまでに自然なのだ。言葉や行動に人としての温もりが感じられる。そして、自分。自我を持つものとして認知されていた研究所時代、苦しかったけれどレンのように暴走したりすることはなかった。もしかすると必要なのは自我なのかもしれない。判断力だけでもなく、感情だけでもなく、両方を備えるもの。自分の中で自分のバランスをとることができるということ。じゃあ今まで暴走してきたレンはバランスを失ったから? 本当の理由はわからない。けれどこれが真実のような気がして、私はマシンに集中しなおした。
さすがに研究所のセキュリティはとってもかたかった。かといってここまで来てあきらめられるはずもない。もちろん自信はあった。だてに訓練を積んできたわけじゃない。そんじょそこらのハッカーやクラッカーに負けない自信はある。それでもやっぱりこういうときはどきどきする。レンのほしがっている情報を、絵里は本気でレンにあげたくなってしまっていた。命がほしいと言ったときのレンの目が脳裏に焼き付いて離れない。それはまったく自分と同じ願いだから、苦しみが手に取るようにわかる。
「あっ!」
いきなりレンの声がした。なにかみつけたのだろうか。耳を凝らして音をさぐると、なにか争うような声がして、イヤフォンに大きなノイズが入った。
「なにするんだ!」
「これで誰と連絡をとっている、言え」
低い男の声がした。
「おい、これを聞いているやつ。こいつの身柄は拘束した。あきらめることだな」
イヤフォンの向こうから、非情な声が聞こえた。セキュリティで逆探知される前に、レンが諜報部員に捕まってしまった。と同時に私は、足早にネットカフェをあとにした。ただ唇を噛むことしか絵里には出来なかった。
[newpage]
***
帰ると美晴が待ってくれていた。仕事を休んでまでして待っていてくれた。なのに。なのにレンは連れていかれてしまった。
「美晴」
「疲れた顔してるわよ。今温かいお茶入れてあげるから早く中にはいりなさい。レンは?」
美晴の言葉は私の沈む心に決定打を与えた。
「美晴、私、私、なにもできなかった。レンは行ってしまった」
言葉にできたのはこれだけで、あとはただ涙があふれてくるばかりだった。
トランシーバーはとりあえず電池を抜いて封印された。広く出回っている品物だからあれひとつでこちらを突き止められるとは思えないけれど、念には念をという言葉もある。
私は諜報部員を怖がって、窓際にさえ立つのを嫌がるようになった。もちろん外には一歩たりとも出られるわけがない。レンには悪いと思っていてもどうしようもできない自分がここにいる。
「すまない、レン……」
そんな絵里を見かねて美晴や和志が一生懸命声をかけてくれるのだが、どう言葉を返していいのかわからず、黙ることしかできなかった。
「絵里、夕飯できたわよ」
美晴が絵里の様子を見にきた時、今まさに出かけようとしているところだった。
「どこに行くの?」
「レンを」
「え?」
「レンを、迎えに行く」
「ち、ちょっと待って」
美晴は、慌てて止める。
「ひとりでどうしようって言うのよ。とにかく和志がもうすぐ帰ってくるから、せめてそれまで待って。お願い」
「……わかった、それくらいなら」
絵里の腕をつかむ美晴の力は思いがけず強くて、仕方なく和志を待つことにした。
[newpage]
***
「レンを?」
「そう。助けに行くんだ。レンは外に出たがってた。生きたがっていた。あそこにいたら死ぬのを待ってるようなものだから。今のままだとレンは処分されてしまう」
「処分?」
「レンは使い捨てタイプなんだ。基本データがあって、それを脳に入れられて必要に応じて起動させる。暴走したら即刻処分、つまり殺される。あのレンは今までのレンじゃない。生きているレンに初めて会えたのにこのまま処分させるなんてできない」
「僕もついていく」
ひとりで研究所に向かうと言った私に向かって和志が言ったのはこんな言葉だった。私と美晴が慌てて和志を見る。
「なにまだ勝算はある。レンは貴重な体験をして研究所に戻ったんだろう? そのデータを研究所側が見逃すわけはないからな。データ採りが終わるまでレンが殺されることはないとみていい。それに、僕だって体術のひとつくらいはできる」
「私も行くわ」
美晴の言葉に私はさらに驚いた。
「こんながさつなのだけより、潤いがあったほうがいいと思うの」
美晴の必殺ウインクが決まると、呆れたように和志がため息を漏らした。
「がさつとは言ってくれたね」
「ほら、帰りは四人になるでしょ? だったら和志の車より私の車の方がいいもの」
といってほほえむ美晴には誰も逆らえない空気が漂っていて、なしくずしに三人で行くことになる。
「でも危ないですから中には入らないでくださいね? 研究所からも離れて待機していてください。お願いします」
「はいはい。あとつけられたら嫌だしね」
「入ったとしても入り口くらいまでにしてください。ふたりに怪我させたくないんです」
よしよし、いい子だね、といった感じで美晴が私の肩を叩いた。
車は研究所から数百メートル離れたところに止まった。
「もっと離れてたほうがいいですよ」
「まぁそう言わない。なにかあったときにすぐに動ける距離がいいのよ」
「結構手ごわそうだぞ」
助手席からオペラグラスをのぞきこんでいた和志がぽつりとつぶやいた。
「なんか、すごくものものしい気配がする」
研究所は私から見てもピリピリしていた。和志が体術の心得があるというのは本当らしい。体の動きを見ていればわかる。
「くそっ、一体どこから入りゃいいんだ」
「簡単」
「なにが簡単なんだ」
「兵法の初歩。どこから攻めても同じなら正面から行く」
「なにぃ?」
「だから門の近くで隠れて待機しててください。和志には危なすぎる」
きっぱりと言い放つ私の目に迷いがないのを見て、和志はあっけにとられた。
「そういうもんなのか?」
「なにかあったら連絡入れます。その時に助けてください。多分、私が脱出するときの陽動になると思います」
「わかった。なんとかやってみる」
「じゃあ行ってきます」
まるで散歩でもするかのように絵里は落ち着いた足取りで研究所に近づいていった。見た目は一般の製薬会社の研究所に見えるのに。ただ、下手すると実弾で射撃されかねない物騒なところだということだけは知らされた。けれどふたりには実感がわかない。普段銃に接することなんてないからだ。それでも絵里とレンが存在しているのはその銃器関係がらみだからで、レンが連れ去られたのもまた事実なのだった。
抜け出すときに着ていた制服を絵里は着ていた。守衛に制服の紋章を見せる。それはこの研究所での特殊部門でだけ採用されているもので、守衛はそれを確認すると慌てて電話に手を伸ばした。私は足を進める。目指すは自分のいた特別研究棟。門さえくぐってしまえば敷地内は関係者ばかりだから、誰がどうしていようととがめるものはいない。人目につかないところにやって来て、私は周りの気配を探りながら走りだした。手には持ち出していたプラスチック爆弾があった。
逃げ道を確認しつつ爆弾を仕掛けていく。早くしないと博士たちに見つかってしまう。
もといた特別研究棟は以前とまったく変わりはなく静かだった。けれどここには警備員が多いから、おおっぴらに爆弾を仕掛けるわけにはいかない。小さなものをこっそりとつけるのがやっとだった。夕闇が影を隠してくれるのが有難い。手持ちの爆弾があとほんのわずかしか無くなったところで棟に入った。まずはレンの生存を確認しにいかなくては。
まずは管制室の制圧だ。迷わず管制室に行き、警報を鳴らされる前に警備員すべてを倒してしまう。扉を開けるなりかかってきた男に一発ケリをいれたあと、返す足でもう一発、倒れこみざまにみぞおちに一発お土産をいれて確実に倒す。警備システムには眠ってもらった。ここまでしても、博士たちが動かないのが不思議だった。自分が戻ってきたことは守衛からの電話で知っているはずなのに。なにかがおかしい。しかし迷っている暇はない。絵里はどんどん進んでいった。
レンは地下の最下層にいた。扉を開けて入ると、当然そこには監視カメラがあった。頬を殴られて唇のはしが切れたらしく、顔が腫れてぐったりとして動かない。あわてて脈を確認する。鎮静剤をうたれてでもいるのか、レンはなす術もなくベッドに横たわっていた。よかった、まだ生きてた。そっとレンの手を握ると、ぴくり、と反応が返ってきた。
「絵……」
「シッ」
唇に指を当てて口だけを動かした。お互い読唇術はできるから、これなら音がなくても会話ができるし、万が一動いているかもしれないカメラに背を向けていれば、会話を読まれることもない。
「だめだろ、戻ってくるなんて」
「お前がほっとけなかったんだ。一緒に生きるんだったら外で生きよう」
「そっちの様子は?」
レンは体を起こしながら私を見る。
「管制壊して鍵も全部開けてきた」
「僕はやらなくちゃいけないことがある。絵里は先に薬のデータを」
「了解。棟の入り口で落ち合おう。動けるか」
「あぁ、もう大丈夫」
「カウント三」
「了解」
「三、二、一」
ゼロのタイミングで私達は一斉に動いた。
やらなきゃいけないことって。なんだろう。
薬のデータは、足りない分を補完するように入手すれば時間がかからないだろう。そのあと予備の薬をもらえばいい。まず弾薬庫に入って武器弾薬の補充をした。それからまた廊下を走り出す。データを入手し終わって建物の最下層の基幹部に爆弾をしかけていく。
こんな研究所つぶれてしまえばいい。
[newpage]
***
「ほら、僕の言ったとおりだったでしょう。エルは追いかけなくても必ず戻ってくるって。僕がいけば、こんなに簡単だ」
部屋の中で博士たちをずらりと目の前にしてレンは言った。
「君は優秀だねぇレン。君のスペックの高さは担当者として本当に鼻が高いよ。ホントにいいパーツに育ってくれたねぇ」
「これだけじゃない。今からエルの実戦データも採取してみせますよ。だから皆さんはここで待機していてください。絶対部屋の外にでないように。怪我でもしたら死ぬことになりますよ」
博士たちがざわめく。
「静かに。死にたいのであればどうぞ僕と一緒に来てください。そういうふうに作ったのはあなたたちだということを忘れないで」
冷たいレンの目に博士たちは黙りこくった。
「わかった、君に任せるよ」
「素晴らしい光景をお目にかけますよ」
レンは冷たく笑うと部屋に鍵をかけた。
「待っていたよ、絵里」
レンは歩き出した。絵里が仕掛けたのであろう爆弾を次々と発見していきつつ、笑みを浮かべる。
「こんな量じゃ、ここは完全に破壊なんてできない。地下は思った以上に頑丈なんだよ」
レンがある部屋に入ると淡い燐光を放つ培養カプセルが並んでいた。その中にいるのはレンのスペアたち。
「僕は僕ひとりだけでいいんだ」
培養基幹部に毒を入れてレンがほほえむ。薄暗い部屋の中、培養液の燐光に照らし出されたレンの顔が不気味に光る。スペアたちが血を吐いて息絶えていく。それを横目で見ながらレンは培養基のカプセルをひとつずつたたき割りはじめた。すべてたたき割り終わると、今度は培養カプセルへの酸素、栄養供給チューブをすべて切っていく。最後に爆弾を仕掛けて部屋を出た。時間がない。博士たちに結果を見せるために急がなければ。
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見取り図が頭に入ってるとはいえ、やはりドキドキする。地下はエレベーターしか別の階への移動手段がないから、これが動かないとなれば死活問題だ。なにごともなく動き出したときにはやっぱりほっとした。地上階に出てまた爆弾を仕掛けてまわる。基幹部に設置して最小の爆薬で最大の効果をねらう。こんな特殊研究棟なんて、ないほうがいいのだ。持っている爆薬には限りがあるから上の階にはあまり仕掛けることができない。下の階の基幹部メインに使って爆発したときに自沈してもらうのを期待するしかない。
モギの部屋で私は自分のデータ一覧を見つけて思わず身震いした。こんなデータ残すわけにはいかない。もうなにもかもすべて、レンと自分の生を脅かすものなんてなくなってしまえば自分は自分になれるかもしれない。
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棟の入り口に、月光に照らされた絵里が見えた。
奇麗だ……。素直な感情でそう思った。こんな感情が自分に芽生えたことがまた嬉しく、それが絵里から得た感情であることも嬉しい。自分は自分なのだ。最初はうらやましくねたましかった。けれど街中で歩いている姿を見た時のあのショックをなんと呼ぶのだろう。周りがすべてくすんで見えた。絵里にだけ光があたっているように見えた。話をしてその感覚はますます強くなった。もう時間が無い。
「絵里、お待たせ」
「レン! 早くここから脱出しよう。建物の地下に爆弾を仕掛けたから」
「そんなに焦らなくてもいいよ、絵里」
レンの言葉とともに地響きと鈍い音がして地面が曲がった。重心を揺らされて慌てて私は体勢を直しながらレンの言葉を疑った。
「レ……ン?」
「僕は終わりだ。ここ以外に生きるところなんてないんだ。僕は痛感したんだ」
レンのまっすぐな瞳は私をひるませる。
「僕たちは、あくまで『試作品』なんだ。完成品じゃない。だからもうここまでなんだ」
「なに言ってる」
パラパラと割れた壁が落ちてくる中もう一度地響きがして棟の一階奥部分が崩れ落ちた。今度は大きい。爆風が私のところまで来ている。今ので通風口もふさがれたはずだ。
「なに、今の爆発。私はやってないのに」
「そう、僕だ。絵里、僕を見て」
ゆっくりとレンは近寄ってきた。夜の淡い光に照らされた中で見たレンの姿は私に衝撃を与えた。
「レン」
レンは自分のもう若くはない手を見た。
「そう、僕には限界がきたみたいなんだ」
「薬は? 予備なら持ってるから、今すぐ飲めばなんとかなるんじゃ」
そんな絵里の言葉をレンはさえぎるように言葉をつなぐ。
「だめだよ。薬は今朝も飲んだしさっきも飲んだ。そう、これが僕の限界」
また地響きがして地上階もくずれつつあった。破片がどんどん落ちてくる。
レンはいきなり私との距離を詰めて、絵里を抱きよせるとキスをした。当然絵里は戸惑う。でも、レンのかさついた肌が限界という言葉を実感させる。筋肉も落ちたような腕で、なのにキスだけは熱かった。けれどいきなり唇は離れていった。
「な、なんなんだ」
絵里は顔が赤らむのを感じる。やはりまだとまどうことが多すぎる。
「これ、お土産。あとで聞いてくれる?」
音声チップを渡されて、流されるように絵里はポケットにしまいこんだ。
「さぁ絵里、走るんだ。僕が警備員を引きつける。いいね?」
「レンを置いていけないだろう」
「僕はいいんだ。思いっきり生きたから」
「まだ間に合うかもしれないのに」
「自分のことは自分がいちばんよくわかるよ。ありがとう、僕のために怒ってくれて」
レンの顔は穏やかな笑顔のまま眉ひとつ動かさない。またひとつ爆発音がして床が傾いた。建物が殆ど崩れて一階の入り口近辺だけが残っている今のありさまで、地下に人がいるとすれば、もう絶望的だろう。
「博士たちは僕が始末した。今ごろは地下で大勢の僕たちと一緒に眠っているころだよ」
「レン」
「君の情報は守られる。もう追われることはなくなるんだ。君は自由だ。僕は君に自由をあげる。さぁ、行くんだ」
レンがかけだした。警備員からの明かりがレンを照らしだす。
「絵里、行け!」
壁が崩れてきて、思わず走りだした。それを見て安心したのかレンはまた特別棟に向かうとふらりと落ちるように飛びこんだ。
名前を呼ぼうとした声は声にならなかった。レンが飛びこんですぐ、大きな爆発が起きて、建物が基幹部もろとも大きく崩れ落ちた。赤い炎と煙が辺り一面に吹き出した。コンクリートの破片が服を切って飛んでいった。
警備員もそうでない者も建物の爆発に気を取られて脱出の妨げにはならなかった。
門を出た途端、美晴の車が突っこんできた。
「美晴! どうしてここに」
乗りこむなり私は叫んだ。
「危ないから向こうで待機していてほしいってあれほど言ったのに。とにかく早く脱出を」
「あの騒ぎでしょ、いても立ってもいられなかったのよ。あれやったの絵里?」
コクリとうなずく。
「ずいぶんと派手にやらかしたわねぇ。レンは?」
「レンは」
和志の言葉をよそに美晴は私に再び聞く。
「レンは体がだめになって、もう」
「じゃあ近くにいるの?」
「違う。私たちのデータを消すために、私が仕掛けた以上の爆弾を仕掛けて、博士たちも閉じこめて、建物ごと壊して……」
美晴の力がすうっと抜けた。
「レンは、死んじまったのか?」
「美晴、早くここから離れないと」
冷静なひと言に、和志も美晴もいたたまれなくなった。この非常時にどうしてこんなに冷静なのか。わかった。それだけ言うと和志は車を急発進させる。和志の加速Gは三人をシートに押し付ける。さすがに美晴は運転する気力がなく後部座席に乗っていた。爆発と喧騒が遠ざかっていく。所在なげに座るふたりを乗せたまま車が進んでいく。和志のやるせなさをぶちまけるかのような横Gが襲う。車内は無言だった。ふと思い出して私はポケットから音声チップを取りだしてただ眺める。
「それは?」
「レンがくれた。あとで聞いてって」
「それを早く言いなさいよ。和志、スピード落として。エンジン音がうるさいから」
「ちょっと待て、そこの角を曲がったら」
車はドリフトして曲がり、なにごともなかったかのように走り出すと、徐々に速度を下げた。それは静かな声で始まった。
「絵里、これを聞いてるってことは無事脱出できたんだね、おめでとう。僕は僕にできる精一杯のことをした。後悔はしてない。君を守ることができたらそれでいいんだ。でもね。絵里。できれば、僕は君と一緒に生きたかったよ。君の無邪気な寝顔をもっと見たかった」
私は思わず口に手を当てた。こみあげてくるものをこらえることができず、ひたすら泣いた。声をあげて泣いたのはこれが初めてのことで、私自身どうしようもなく肩が震えてしまう。愛という感情は、私にはわからない。けれど、大切ななにかに守られ、それを失ったことだけは感じる。自分はレンによって生かされたのだ。これだけは一生忘れちゃいけない。
美晴が、私の肩を優しく抱いた。
だめだ、レンをこのままにしておけない。
「なに、どうしたの?」
「やっぱりレンが……」
なにをどう言っていいのかわからないまま私は飛び出していた。
助けなければ。自分だけ助かっていいなんて理屈わかりたくもない。もしかしたらまだあきらめなくてすむ可能性だってあるかもしれない。だめだって言ってるのはレンだけだ。私はなんのためにあの研究所に戻ったんだ? レンを助けるためじゃなかったのか。
自問自答しながら走りつづけた。
レンはどこだ、どこにいるんだレン。
研究所の入り口からはいるには、さすがに騒ぎがおおきすぎて無理だったので、なんとか柵をこえて忍びこんだ。さっきレンが飛びこんでいった場所を目指してまた走る。
あの角度から飛びこんだのなら、崩れ方から見て……。
頭の中でレンの位置をシミュレートする。しかし、その前に崩れた建物の周りはすごい騒ぎで煙もあがっているしで近づくのも難しい。絵里はなかば人を押しのけるようにしながらがれきの中につっこんでなりふりかまわず飛び降りた。
コンクリートの壁と壁がぶつかってできた隙間をぬって私はおりていった。建物の崩壊そのものはほぼ終わっているらしく、新しく大きなくずれがおきてはこない。最初から地下の最下層にいた人間達はだめだろうが、上から飛びこんだレンなら、どこかのエアポケットにはまっているかもしれない。けれど、さがそうにも暗い上に煙がひどくて視界はほぼゼロだ。下手にブロックを動かせば大きくくずれるかもしれないから動かすことはできない。ひどくもどかしい思いをしながら、それでも手探りで進むしかない。
「レ……げほっ」
名前を呼ぼうとしたとたん煙がのどにはいってむせてしまう。それにこの騒ぎだ。声をだしてもはたして聞こえるのかどうかおおいに疑問だ。暗い穴をおりていくと、小さなエアポケットにたどりついた。地下のたて構造から外れた、少し横にはみ出したように作られていたらしい部屋なのか、機器類は壊れているようだったが床はしっかりしていた。
まさか、ここにデータが残っていたらとこわい考えがよぎる。しかしそこにはマシンそのものがなかった。これではデータの保存しようがない。マシンがない? 視界がないはずなのになぜそんなことがわかるのか、一瞬自分でもわからなかった。足を進めようとするとぴちゃりと水音がする。はっとして足元を見ると、床をぬらしている液体が燐光をはなっていて、小さな空間が見渡せていたのだった。煙が少ないのも液体のせいだろう。見渡してみると、すみに人が倒れている。
「レン、レンなのか?」
思わず駆け寄っていた。レンであってほしい。この場所に倒れているのであれば、生きている可能性が高い。生きていてほしい。自分を犠牲にしてまで私を生かそうとしてくれたレンが、ここで死んでなんかいいはずがない。私のために死ぬと言うのなら、あえて私のために生きてほしい。私がなんとか生きる道を探すから。抱き起こしてみると服ごとびっしょりで全身があわくひかっている。普通ならその普通じゃない光に驚くところだったけれど、今はかえってその方がありがたかった。ぽたりと髪から光がしたたり落ちる。うつぶせに倒れていたせいか、顔までみごとにびしょぬれで、本当に頭の先からつま先までこの液体をかぶってしまったようだった。あわくぼんやりと暗闇に光るその人は本当にレンだった。服はボロボロになってはいたけれど不思議なことに顔や手に傷がない。けれどその光のせいか本当に人形のように見えて少々不気味ではあった。
「レン! 目をさませ、レン!」
頭をゆらすわけにはいかないから、抱きしめたまま声をかけることしかできない。気を失っているのか、もう死んでいるのかはわからない。それでも声をかけずにいられない。
何回さけんだだろう。そんなのおぼえちゃいない。とにかくレンの名前を呼びつづけた。ぴくっとレンの体が動いた。生きているのならどうか目をさましてくれないだろうか。眉をしかめつつレンが目を覚ました時の喜びを絵里はなんと表現していいのかわからない。
「レン、気づいたか! 私だ、わかるか」
「絵里、どうしてここに……」
「まだ死んでない。お前はまだ死んでない。生きる道を探せるってことだ」
ぼんやりとした反応で、レンは自分の手のひらを見て、ゆるゆると驚愕の色に変わっていった。
「手が……」
「どうした」
「身体が変だ」
「なにもおかしくなんかないだろう。お前はちゃんと生きてる」
「だからそれが変だって」
信じられないといった顔でレンは手を握ったり開いたりしたあとのばした。
「僕は確かに身体のきしみを感じてたのに、今はどこにもそれがない。ほら」
私の頬にそっと手が添えられる。しなやかな指がすいつくようだ。
「どうして」
私の頬にできていた傷も治っているのに気づいて、はっとした。
「まさか、この光ってる水か?」
「どうなんだろう。でもちゃんと腕に力がはいる……。信じられない」
「とにかく早く脱出しよう。ここもいつまでもつか」
「わかった」
私たちは立ち上がった。
これはもしかしたら鳴滝の遺産なのかもしれない。
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