ー第一章ー

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早打(はやうち)と共に鐐は数年ぶりに伊庭家に戻った。  半刻(一時間)程歩けばたどり着く距離であったが、試衛館に来て以来これまで一度も帰ったことがなかった。  変わらぬ屋敷に、変わらぬ大勢の親族。ただ一人変ってしまった父は、老人のように顔や手にしわが寄り動かなくなっていた。  コロリだったという。  つい先日会った時は、元気だったのにーー。  鐐は父の傍らで泣き崩れる、母と呼ぶことのできないその人の慟哭をしばらく俯瞰した。  父が亡くなり、喪失感と共に感じるのは虚無感。  何も聞くことが出来ないまま、父は逝ってしまった。  何故ここにいるのだろうか、自分は一体誰なんだろうか、一体どこの誰から生まれてきたのだろうか、自分という存在が急に遠くなっていった。  これから自分はどうしたらいいのだろう。  どこか現実とは思えず、鐐はこの場に馴染んでいない自分を冷たい人間だと思った。 「鐐……」  優しく声をかけてきたのは兄、八郎だった。  鐐はそっと抱き締められ八郎の腕の中に包まれた。  久しぶりに感じる兄の温もり。伊庭家にいた頃、辛い時はいつもこうして包んでくれた。独りではない安心感。  気付けば鐐は静かに涙を流していた。  初めに剣術を指南してくれた父。女子でも剣を学び身を守ることを教えてくれた。この世に存在していない自分に、剣術を通して生きる道を与えてくれた。  試衛館に行った後も、なぜ自分の命が狙われるのか理由を教えてはくれなかったが、いつも身を案じてくれていた。  鐐は止まらぬ涙と共に父を失った事実を受け入れた。  秀業の死からふた月後。  葬儀を終え忌服の期間を過ぎる頃、身動きの取れなくなった鐐は伊庭家に留まっていた。 「養子、ですか……?」 「本当は先代が、君に迫る危険はなくなったからと、亡くなる少し前から正式に養子として迎えるつもりをしていたんだ。君の事は先代から後を託されている。これからは伊庭家の養女として、ここで暮らすといい」  秀俊に養子の話を持ちかけられていた。  元々大所帯の伊庭家。さらには大勢の塾生を抱えている。鐐が一人家に戻ったところで、さして変わりはないのであろう。  この面倒な家の当主として、既に家督を譲り受けている秀俊は剣術だけでなく、よく出来た人だ。秀業の実子、八郎に対しても、素性の分からない鐐に対しても、血縁者ではない秀俊を伊庭家の当主として認めたくないのか、常に当たりの強い秀業の甥に対しても、誰に対しても分け隔てなく思慮分別している。心温かく情に厚い誠実な人物だ。 「でも、私は……」  鐐は秀俊の恩を感じながら返事に詰まった。  養子に入ったところで、自分が何者か分からない事に変わりはない。義理堅い秀俊に面倒をかけたくはなかった。そして何より伊庭家に自分の居場所があるとは思えなかったのだ。 「今直ぐにでなくても大丈夫だよ。久しぶりに戻ってきたのだ。慣れるまでゆっくりするといい」  秀俊が去った後、鐐は鏡台に写る自分の姿と向き合った。  髷を結われ簪を挿した髪に、紅を差した艶やかに写る顔。稽古着で木刀を振り回していた男勝りな姿は鳴りを潜め、今は丈の長い小袖に打掛を羽織っている。  義母のマキは、幼少期に辞めた琴や三味線の他、舞踊や歌道を毎日勧めてきていた。 ーーいいかい、もう男の格好はするんじゃないよ。黙っていれば容姿は優れてるんだ、直ぐ貰い手がみつかるさ。  そう言ったマキはどうやら養子に迎えた鐐を旗本へ嫁がせ、武家との繋がりを強固なものにしたいらしい。  何もかも突然で、いつも自分の意思とは無関係に過ぎていく。  部屋から眺める庭には奉公人がいて、道場の門弟は今や千人余り、部屋も敷地も道場も、試衛館と比べる間もなくだだっ広い。しかし鐐の心は窮屈だった。 「あっ、いたいた、鐐。……うん。その姿も素敵ですね」  八郎が庭から姿を現した。 「兄上。学問所の帰りですか?」 「いや、講武所に行っていたんだ。父上にも勧められましてね。私もそろそろ剣術を習おうと思いまして」 「講武所……ですか」  講武所とは、幕府が弱体化した武力を上げるために、軍制改革で設置した武芸訓練機関である。旗本達が剣術、槍術 (そうじゅつ) 、砲術などを訓練しているのだが、秀俊はそこの教授方として出仕している。  秀業の死後、八郎は秀俊の養子となり彼を父と呼ぶようになった。三年の間に随分と大人の顔になった兄。父の死に立ち止まることなく、しっかり前へ進んでいる。  それに比べ自分はーー。 「鐐はまた芸事の手習い所へ行くのですか?」 「……そう、なのかもしれません」  まるで心がなく、身体のみが存在しているような状態で他人事のように話す鐐。  こうして芸事を習い、言われるがままま、何処かに嫁いでいくかもしれない。自分という存在が分からず、夢中になれるものも取り上げられてしまった。  鐐は、酷く虚しく、置いてけぼりを食らったような気持ちになっていた。 「……鐐、少し私に付き合って下さい」  通りは煮売り屋、蕎麦屋、蒲焼屋などの食事処で賑わっており、様々な行商人や旅人が行き交っている。  鐐は八郎に誘われ町へ出かけていた。  試衛館にいる時も使いなどで町へ出かけることはあったが、華やかな柄の小袖姿で外に出るのは初めてだ。歩く歩幅も、景色も人も何だか全てが違って見える。往来する人の多さも、袴で歩いていた時は気にならなかったのに、今はその人達がじろじろとこちらを見てくるので鐐は気後れしていた。  鐐は前を歩く八郎を呼び止めた。 「あの、兄上……」 「どうしました?」 「あの……私は、どこか変なのではありませんか?」 「変?」 「先程から、たくさんの視線を感じます」 「あぁ、それは鐐が綺麗だからですよ」 「綺麗? 私がですか??」 「はい。勿論ですよ。自信を持って下さい。鐐は綺麗ですよ」  隠れるように生きてきた鐐にとって、人から関心を持たれるのは慣れぬもので、ましてや男のように剣術に夢中になっていたのだから、綺麗などという言葉をかけられてはどう反応してよいのか分からない。  恥ずかしくなった鐐は居心地の悪さから目を伏せた。 「ところで兄上、私達はどこへ向かっているのでしょうか?」 「えっ、あー、墨屋と筆屋に」  思案投げ首をしながら答える八郎。ここまで来る途中では、小間物屋や団子を勧めてきていた。欲しい物など何もない鐐は人目を気にしながら八郎の後ろに続いていたが、ここで初めて兄が自分の為に外に連れ出したのだと気が付いた。  昔から変わらない優しさ。自分はそこに存在していないかのように無(な)みする屋敷の人達の中、初めに道場の庭に誘ったのも八郎だ。父の擁護の届かないところで、いつも側に寄り添ってくれていた。 「きんぎょぉ~。きんぎょぉ~や」  暫く歩いていると、金魚を担いだ俸手振(ぼうてふ)りが通りかかった。 「珍しいですね。この時期にまだ金魚がいるなんて」 「よっ、若旦那。今日で最後の金魚だぜぃ。あっしの金魚は生命力に加えて気品が違うってんだ! 見てくれ 。この見事な尾びれーー」  一間ほど前で八郎に金魚を見せている俸手振りが、ふとこちらを見た。目が合った鐐は慌てて軒下の陰に入り身を隠した。  前と後ろで付き従う形で歩いてはいるものの、本来八郎は、男女が並んで町を歩くことなど憚られる武家の者だ。袴姿ならまだしも今、自分はれっきとした女の姿である。ただでさえ素性の知れない自分を、八郎が連れていたなど噂にでもなれば一大事だ。  鐐は身を縮め存在を殺した。伊庭家にいる時はいつもこうして生きてきた。そもそも産まれた時からそうなのだ。自分は存在していないのと同じ、誰も自分に気付きはしないーー。  しかし鐐の思考とは裏腹に、先ほどの俸手振りが愛想のよい笑顔で会釈し通り過ぎて行き、それと同時に八郎が軒下までやって来た。 「鐐、これをどうぞ。贈り物だと気付いた主人におまけして頂きました」  武家の体裁、そんなことなど露程も思っていないような八郎から、ビードロの玉に入った金魚を受け取った。  屋敷に戻り、昔からよく遊んだ道場の庭へ寄った。  縁台に腰かけ、門弟たちの稽古を遠目に、羨望の眼差しで見る鐐に八郎が問いかけてきた。 「鐐は剣術が好きなんですね」 「はい……。琴や三味線を弾(はじ)くよりも竹刀や木刀を弾く方が、踊りを舞うよりも武術を舞う方が好きです。本当はこんな綺麗な小袖よりも稽古着の方が落ち着くんですが……」 「ふふふ。そういえば、鐐は袴姿も似合っていましたね」 「……兄上は男の姿をするな、とは言わないんですね」 「そうですね。何だっていいんですよ。鐐が笑っていれば。それに袴姿なら並んで町を歩いても誰にも咎められませんね」  鐐は八郎からもらった手元の金魚に視線を落とした。  結局あの後、墨屋と筆屋には行かなかった。鐐が女子の格好で気怖じしている事に気付いたのであろう八郎が「戻りましょうか」と言ったのだ。  ビードロの玉の中では、既に移ろったであろう折節の金魚が泳いでいる。今更伊庭家の養女として迎え入れられる自分のようだ。 「兄上……この金魚は私と同じですね」 「……鐐?」 「綺麗なビードロの中で、優雅に泳いでいても所詮この玉の中。外では生きられず、処狭しと生かされている……」 「鐐、あなたはーー」 「ーー部屋に戻りますね。今日はありがとうございました。外に、出られて良かったです」  これ以上、本音を話してはいけないと焦った鐐は逃げるようにその場を後にした。  その日の夜、部屋の軒下に吊るした金魚玉は、名残の月になるまで闇を眺める鐐の側で物哀しく揺れていた。
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