ー第一章ー

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 後日マキは縁談の話を持ちかけた。 「いい相手がいたんだよ。幕府の書物方に出仕している旗本でねーー」 「ーー母上、鐐はまだ戻ってきたばかりですし、養子縁組の手続きはまだ私しか済ませていません。それに父上の喪が明けきってない内は世間体にもよくないのでは」  直ぐにでもと縁談を進めようとするマキに八郎は切言していたが、マキは聞く耳を持たなかった。  肩身の狭い鐐は反論する事ができず、こうしてまた自分の意思のないまま埒外へと置かれる事に諦めの境地にいた。  そんな中、鐐は渡したいものがあると言う秀俊の部屋に呼ばれた。 「これを君に。少し早いとも思ったのだが、縁談の話が持ち上がっているので今渡すことにしたよ」 「これは……?」  鐐は一振りの太刀を受け取った。 「これは先代から君に渡すようにと言われていたものだよ。先代はこの刀と共に君を預かったと言っていた」  上質な生糸で織られた刀袋に入っていた物は、鐐の本当の親のものだという。 「九代目は私の産まれを御存じなのでしょうか? 私は明楽茂正という旗本から預かったとしか聞いておりません。彼は一体……?」 「私は明楽茂正という旗本に会ったことはない。生憎、君がここに来た事訳は何も知らないんだ。先代はそのことについては堅く口を閉ざしていたから、余程の事情があるのだろう。ただ、私が口を挟んでよいものか分からないが、一つだけ気になる事がある。先代に会いに幸次郎という名の男が度々ここに来ていたのだ。年の頃、三十二、三といったところか、大工の格好をしていた。しかしあれは間違いなく侍だった。鋭い眼光の持ち主であったし、剣を極めた者の風格が感じられる男だった。恐らく偽名ではあろうが幸次郎殿なら何か知っているのではないだろうか」 「大工の幸次郎……」  自身の部屋に戻ると、鐐を案じて様子を見に来ていた八郎が居た。鐐は秀俊から聞いた内容を八郎にも話し、その場で刀袋を解いた。  白鞘から取り出した刀は、細身で小乱れ刃を焼かれたとても優雅な太刀で、則宗と銘が切ってあった。あまりに存在感のある美しい刀。それは、鐐の生まれが高い身分であることを示唆していた。  自分の存在を失っていた鐐は、この刀が自身の出生を知る手立てになるのでは、と胸が高鳴った。  これを辿っていけば、いつか本当の親を知る事が出来るのではないだろうかーー。何故自分は夭折したことになっているのか。何故命が狙われたのか。そして何故ここにいるのかーー。言われるがままに自分の生き様を決められ、このまま輿入れするなんて耐えられない。 「兄上……私は……」  真実を知りたいと思う気持ちと、恩のある伊庭家に従うべき気持ちが交差する中、眉根を寄せ顔を歪める鐐。  鐐の胸中を察したのか、八郎は軒下の金魚玉を外し、やんわり目を細め微笑んでいた。 「鐐はこの金魚が自分と同じだと言っていましたね。綺麗なビードロの中で生かされ、外では生きられないと……。しかしこのままでは、外に出なくてもいずれ死んでしまいます……。……鐐、昔よく笹舟を作って流した川が近くにありましたね」  鐐は八郎と共に屋敷を抜け出した。   そよそよと流れる小川が緩やかにうねり、そのせせらぎが鐐の心を宥める。  隣にいる八郎は金魚をそっと川に流した。どこまでも続く川の流れに沿い、泳ぎ出す金魚を見送ると、立ち上がった八郎が手を取ってきた。 「鐐、私はあなたの望みを叶えたい。自由になってもいいんですよ」 「兄上……。私は……私はまだ自分が何者であるかも分からない身……。本当の父上、本当の母上を知りたい。自分の存在を取り戻したいです。何も知らぬまま、見知らぬ人のところへ嫁ぎたくはありません!」 「はい」  柔らかく微笑む八郎が、僅かな希望の道標のように見えて鐐は決意を固めた。  数日後、再び袴姿と総髪に戻した鐐は秀俊に、養女になることを断り頭を下げた。  秀俊は鐐の申し出を受け入れ、本当の親を探す事について力添えの意向を示してくれていた。  縁談の話は何故か相手側から断りの文が届いており、急転直下の展開に八郎が関与している事は明らかであったが「良かったではないですか」と、白を切る八郎に事のあらましを知るのはもう少し後になる。  しかし問題はマキであった。激怒した義母には、二度と伊庭家の敷居を跨いではならないと、勘当を言い渡されていた。  こうして鐐はまた試衛館に身を寄せる事になったのであった。  試衛館まで付き添うと言った八郎と共に歩く道中。 「兄上。色々とご面倒をおかけしました」 「いいんですよ。私としても鐐が正式に妹になるのは御免でしたから」 「え?」 「それよりもその刀ですが、やはり則宗は一級品のようですね。菊一文字と称されていて、高家や諸大夫の御前様が帯刀するような代物だと父上から聞きました。それを辿って鐐の本当の親が見つかればいいのですが……そういえば幸次郎という大工について何か分かりましたか?」 「いえ、何も。九代目は父上が亡くなる少し前に来て以来、姿を見せなくなったと言っていましたし、界隈の大工の棟梁に聞くも、やはり幸次郎という者の存在は確認する事が出来なかったと……」 「そうですか。もし、父上のおっしゃる通り幸次郎殿が武士であるなら、講武所に手掛かりがあるかもしれませんね。私も共に探すのをお手伝いしますよ」 「ありがとうございます。兄上」  鐐は袋に包まれたままの刀を胸に抱き締め、希望と期待で顔を綻(ほころ)ばせた。  今更身分というものに頓着はしないが、自分の根源を知りたいと思うのは、人としての本能であろう。養父秀業に導いてもらった剣術、今度はこの刀と共に不確かな自分を確かなものに変えていきたい。親の手掛かりはまだ皆目見当もつかないが、漸く自分の意思で歩みを始められたのだ。  試衛館に着くと八郎や秀俊が既に膳立てしていたようで、周助と勝太に快く迎え入れられた。  八郎は周助に、再び世話になる事を申し出た時から、謙虚で礼儀正しいその姿を気に入られていたようで、帰り際また顔を出すようにと再三言われていた。  久しぶりに入る試衛館の部屋で、やはりこれぐらいの広さの方が落ち着くと、鐐が数少ない荷を整理していると、後ろから以前と変わらぬ軽口が響いた。 「芋道場に戻ってくるなんて君も変わり者だね」  相変わらずのひねくれ者の総司の声が妙に心地よく、鐐は凛然と振り返った。 「まだ総司から一本も取っていませんからね」  総司と見つめ合うその瞳には、以前にはなかった志を宿していた。
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