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ー第二章ー
安政六年(一八五九年)
この年、土方歳三が天然理心流に正式に入門した。
沖田総司は再び試衛館に戻った鐐と稽古に精を出しており、剣術も然(しか)る事乍(なが)ら日々の生活そのものが充実していた。ある事を一つ除いてはーー。
「あーあ。今回もまた総司から一本取れませんでした」
「鐐はまだまだ正直者だから、もう少し老獪にならないと。土方さんみたいにね」
「なんだと、年寄みたいな言い方しやがって、経験豊富で明敏だと言え」
「うーん、そうですね。土方さんの明敏さは女性を手玉に取る手腕でも、遺憾なく発揮されていますからね。今は三味線屋の看板娘と文を交わしているそうじゃないですか」
「総司てめぇ、それをどこから!? いや、まずそうじゃねぇ、それは長兄が勝手に引き合わせただけでだなーー」
「ーー皆さん、こんにちは」
「あっ、兄上!」
稽古が終わり三人が雑話しているところに八郎の声が混じった。
「よぉ、八郎。講武所帰りか?」
「いえ、今日は鐐にこれを。九代目から預かった新しい袴を持ってきたんですよ」
「過保護な兄に過保護な師範なこった。どこも兄というものは過保護になるらしいな」
「鐐を追い出す形になってしまって、心咎めているんですよ。鐐、お変わりありませんか?」
「はい、お陰様で」
「しっかしお前、また一段と頑健に見えるようになったじゃねぇか」
「そうですか? トシさん今度手合わせお願いしますよ」
「いいぜ、その代わり俺が勝ったら遊興に付き合えよ」
鐐の兄だという八郎。総司は初めて会った時からこの男が気に食わなかった。
華奢で身体の薄い、如何にも優男といった印象であった男だったが、講武所で剣術を磨いていると聞く。確かにここに来るたび逞しい体付きになっている。剣術を始めたのはここ一年だが、すぐさま頭角を現し俊敏で妖異的な姿から『伊庭の小天狗』と呼ばれているらしい。文武両道さらには顔も育ちも良いと、江戸市中では少し有名な存在になっている。
土方とは九つも年が離れてはいるが、以外にも気が合っているようだった。一方は豊かな生家に生まれた末子、一方は大道場の嫡男ではあるが家督を相続していない身、どちらも部屋住みで通ずる所があるのだろう。
だが総司は八郎の存在だけが何故か癪に障る。いや、何故なのか理由に気付いてはいるが、それを認めたくない故に出来るだけ関わらないよう距離を取っている。
総司は木刀を片付けそそくさと道場を後にした。
その後ろから三人の声が聞こえる。
「……あれ? 総司?」
「あいつなら出ていったぜ」
「えっ、いつの間に。折角兄上が来てくれたのに、挨拶もしないなんて」
「ふふ、沖田さんには挨拶が出来ない理由があるのでしょう」
「……成程な」
理由を察した土方が妖しい表情で笑っているのが目に浮かぶ。面白くない。あの八郎の全てを見通しているような余裕も不愉快だ。
総司は台所に立ち寄るとその鬱陶しい気分を晴らすため、丁度煮出してあった茶を釜から掬い、土方がいつも使っている湯呑に、土方生家ご自慢の石田散薬と共に注ぎ入れた。相当不味いらしいこの薬を、何も知らずに飲んだ土方が噴き出し咽(むせ)る事を想像しながら。
翌年、十九になった総司は免許皆伝を受け、試衛館の塾長筆頭になった。
青年期の著しい成長を終えた鐐は十七。土方は何の代わり映えもなく二十六になり、二十七の勝太はツネと言う女性を娶っていた。
ツネは勝太だけでなく試衛館の弟子に対しても献身的で、食事支度や洗濯などを請負ってくれるようになった。
そんなツネに鐐は影響を受けたのか、ある日、鐐が総司の稽古着に理解し難い刺繍を施してきた。
「なにこれ? 新手の嫌がらせなの?」
「総司の、沖田家の家紋のつもりだったんだけど……」
「ぷっ。これはどう見ても、潰れた丸の中に角ばった花びらのような模様が四枚。沖田家の家紋ってこんなだっけ? あははは!」
沖田家の家紋は丸に木瓜、とても上手いとは言えない出来栄えに総司は笑いが止まらない。
「そんなに笑わなくたっていいじゃない!」
「……まぁ僕にはこれでいいけどね」
総司は笑い過ぎて出た涙を拭きながら稽古着を受け取った。
以前ツネが勝太の為に、稽古着に髑髏の刺繍を施したのを真似たのであろう。出来栄えはともかく、鐐が慣れない縫物を自分の為にやった事が単純に嬉しい。
更に鐐は食事の支度にも意気込んでいた。これまでも内弟子として手伝うことはあったが、自ら意欲的に取り組んでいる姿は初めてだ。
「今日の昼餉は鐐も手伝ってくれたそうだ。皆、有難く頂こう」
「「「…………」」」
勝太他、皆が黙ったまま粗飯を流し込んでいる。
剣術や学問に秀でて、何でも器用に熟(こな)すと思っていたが、鐐は料理もからっきし駄目であるみたいだ。
しかしそんな粗飯でも、美味しいと感じてしまう総司は、馬鹿になった舌を誤魔化し口を開いた。
「……なにこれ? 汁も煮物も味がしない。それにこの人参は硬いし、まともなのはこの沢庵だけだね。形は歪だけど」
「文句言うなら食べないで下さい。今日は薪の燃え方が悪かったんです」
「まぁまぁ、最初から何もかも上手く出来る人なんていないさ」
慰めの言葉をかける勝太だったが、鐐は自分には向いていないと匙を投げている様子だった。
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