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しとしと降る長雨に、湿り気に満ちた空気が纏(まと)わりつく。平穏な日々に暗雲が立ち込めたのはそんな日だった。
鐐は酷い倦怠感と激しい咳、発熱に苦しんでいた。
一旦は町医者に診てもらい薬を飲んで解熱したのだが、翌日には再び高熱に見舞われ、目は充血していた。
「あの町医者、藪医者なんじゃないの!」
「まぁ落ち着けよ、総司。この石田散薬でも試してーー」
「ーー土方さんは鐐を殺す気ですか!? そんな怪しい薬、もっと信用出来るわけないじゃないですか!」
「なんだと! 石田散薬はだな、古来より多くの和歌の歌枕となった、多摩川の恩恵を受けた牛革草を天日干ししてーー」
「ーーまぁ、まぁトシさん。今は食事も取れていない状態ですので、取り敢えずこの手拭いで頭を冷やしましょう。沖田さん、水を汲んできてもらえませんか?」
「あぁ」
八郎は三日前に発熱したのを知って以来、毎日様子を見に来ていた。
ただの風邪とは思えないその異常さに、天邪鬼だった総司は分かりやすく周章狼狽しており、普段なら応じることのないであろう八郎にも素直に従っていた。
「じゃあ俺はツネさんに何か食えそうなもんがねぇか聞いてくるぜ」
総司と土方が部屋を出た後、鐐は見舞う八郎から背を向け、布団に顔を埋(うず)めて咳をした。
「ゴホ、ゴホッ。あに、うえ……ここに来ては、ゴホ、ゴホッ……なりません」
「鐐?」
昨日とは打って変わって熱に浮かされる。口の中が焼け突くように熱く喉が痛い。医者に診てもらった後は症状も落ち着き、これで回復すると思っていたのに、今は更に症状が悪化している。止まらない咳嗽(がいそう)に鐐は一つの懸念を抱いていた。
「ゴホ、ゴホ、ゴホッ。誰も、来ないように、ゴホッ……伝えてください」
「鐐! その顔は……」
布団から出した鐐の顔を見た八郎が酷く驚いている。
やはりーー。発疹だ。
これまでにたくさんの医学書を読んでいた鐐は、自身が『命定め』と呼ばれ恐れられている麻疹(はしか)に罹(かか)っていることに気付いていた。
重症の伝染病で特効薬もなく自然治癒を待つしかない麻疹は、以前は『赤もがさ』と呼ばれ度々大流行を繰り返し、 天然痘より死亡率が高かった。
鐐は八郎に自分の所為(せい)で皆に移してしまうことだけは避けたいと、部屋から出て行くことを懇願した。
「どきなよ。伊庭君! 何で入っちゃいけないのさ!」
「総司! 鐐は伝染病だ。あいつの気持ちを考えろ!」
部屋の外では八郎に詰め寄る総司を土方が諭していた。
「ゴホッ。ゴホッ」
少し眠れたのか、部屋は五月闇(さつきやみ)に覆われていた。
傍に誰かの気配がする。弱々しい気息で、起きているのか寝ているのか、それすらも分からない状態の鐐は、外界を認知することが出来ない。再び激しく咳き込む身体を布団に隠し背を丸めると、その気配は、はみ出している背中をそっと撫でた。
「……早く良くなってよ。僕はまだ、君に何も伝えていないんだから」
総司の声だ。普段では想像も出来ない優しく撫でる手や声に、呼吸が少し楽になる。
「……なにを、ゴホッ、ゴホッ。伝えて……くれるのですか?」
そう言って、鐐は直ぐまた昏蒙(こんもう)してしまった。
ーーここはどこだろう?
意識混濁する中、鐐は誰かの腕の中に包まれているのを感じた。とても温かくて、柔らかくて安心する。自分の身を全て預けて包み込む優しい腕。
どうやら夢を見ているみたいだ。
ーー誰の腕なのだろう……。
鐐は声を掛けようとした。が、言葉にならない。仕方がないので、手を伸ばしてその人を確かめようとした。しかし、その手は小さ過ぎて届かなかった。他に身体を動かそうとしても全く自由が利かない。
鐐は動かない身体のまま、ふっと意識を周りに向けた。
ここは炎に包まれている。ごうごうと燃え盛る中、人々が逃げ惑い、そしてその中に不穏な気配を纏った影がいた。嫌な気配だ。妬(ねた)みや嫉(そね)み、そういった類の暗く重いドロドロとした憎悪の念が渦巻いている。
小さな身体は五感以外のものを感じやすい。この気配は自分の命を狙っている事が分かった。
鐐を抱いているその人はその影に気付いたようだ。隠すように鐐を更に胸の中にギュッと抱きしめ駆け出した。
鐐は直感した。
ーーきっとこの人は母上なのだ。その姿を確認したい。声を聞いてみたい。呼びかけて欲しい。笑いかけて欲しい……。
しかし着物の袖に深く包まれている鐐からは何も見えない。初めて知る母の温もりだけを感じ、聞こえる鼓動の音に鐐の意識は途切れてしまった。
次に感覚が戻ると鐐は自由に動く事が出来た。深い霧がかかっていて、よく見えない周囲に手探りで起き上がる。
母上はどこへ行ったのだろうと、少し歩いてみると急に霧は晴れ、穏やかな風が吹き始めた。
無辺に広がる草原に、目の前には広大な川が流れている。
川の向こう岸を見ると、柔らかな日差しを浴びて、美しい色とりどりの花が咲き乱れており、そこには一人の女性が佇んでいた。
髪は肩まで切り揃えられ、被布を纏い出家している姿。どこか自分に似ている気がする。
「母上?」
鐐は、はやる気持ちを抑えられず、手を伸ばし川に足を踏み入れた。
しかし緩やかな水流に見えた川は一瞬にして暗闇に変わり、鐐はその暗闇に飲み込まれてしまった。上も下もなく、色も音もない、何もない無の世界に落ちていく。朽ちていくようだった。自分が完全に消えて無くなっていくのを感じる。
ーーあぁ、きっとこれが涅槃の世界なのだろう。
鐐は全てを諦め死を受け入れようとした。
ーー母上はどんな人だったのだろうか。父上は誰だったのだろう。一度でいいから会ってみたかった。
鐐が母と父を想い意識を手放そうとした時ーー。
「ねぇ、早く起きてーー」
手に温もりを感じた。
「ーー僕を、置いて逝かないでよ」
繋がれた力強い手が鐐を引っ張っている。そっちに逝かないでとーー。そして縋るように何度も鐐の名前を呼ぶ。
「…………鐐」
ーー鐐。そう私は鐐。どうしてここにいるのだろう? 皆、私に気付かない。私は存在していないのと同じ。心が空っぽで淋しい。孤独が怖い。同一性のない自分が心細い。あぁ、母上。あなたはもう、そちらにいるのですね。父上も、そこにいるのでしょうか? 私はあなたに会いたかった。あなたを知りたかった。私が、私であるという確信が欲しかった……。このまま消えてしまえば、私の生は何の意味もなく終わってしまう。母上、私は自分の存在を取り戻したい。そうすれば、あなたに会うことが叶わなくとも、きっとあなたを感じることが出来ますよねーー。
消えかかった意識が希求を取り戻す。救いあげるように導く手を握り返し、鐐は心地よい浮遊感に身を任せた。
朦朧(もうろう)とした意識がゆっくりと覚醒する。
鐐は隣に自身の手を握り締めている総司を見つけた。
全身に広がった発疹が少しづつ消えて十日。
まだ軽い咳が続いていた鐐は、病余の静養をしていた。
久しぶりに戻った日差しは、昨夜の翠雨(すいう)を反射させ庭の草木を煌めかせており、病み上がりの身体に安らぎを与える。
伊庭家で受け取った太刀を手入れしている鐐は、眩しい景色と澄んだ空気に身体を弛緩させ、熱にうなされ見た夢を想った。
ーーあれはやはり母上だったのであろうか。自分が見たものは現世(うつしよ)ではなかった。恐らく母上はもうこの世にはいないのであろう。
打ち粉を打って丁子油を塗った刃をそっと置き、鐐は静かに思いを馳せた。
柄(つか)から取り出した刀身は、相変わらずの存在感を放ち白光りしている。
「ーーその刀。綺麗な刀だね」
いつの間にか、開けっ放しの隣の部屋から総司が顔を出した。
「総司。稽古は終わったんですか?」
「あぁ。鐐がいないから苛める相手がいなくてね」
「ふふっ。苛められるのは御免ですが、私も早く稽古に出たいです」
「丸二日も昏迷していたんだ。少しづつでいいんじゃない。まぁ、鐐の具合が悪いと、毎日のように君の過保護な兄がやってきて煩わしいから、早く良くなってくれなきゃ困るけど」
相変わらず総司は八郎と反りが合わないようだ。
「兄上は昔から心配性なのですよ……。ねぇ総司、一つ聞きたいことがあるのですが……。仏門に入る女性ってどの様な人なのでしょうか?」
「藪から棒に何さ、出家したいの?」
「いえ、母上を見た気がして……。夢だったのかもしれませんが、確かに出家した姿の母上を見たのです。その姿はとても高貴で…………この刀も恐らく……」
「菊一文字則宗。下級武士が到底手を出すことなんて無理な代物だね」
「知っていたのですか?」
「刀を持つ者であれば、則宗の銘を見れば誰でも分かるさ。まぁ、それで君の母上が分かるわけじゃないけど。いずれにしても出家するってことはそれなりの身分だったんだろうね。そして君も……」
「私は自分の身分というものは今更気にはしません。でも知りたいのです。自分の父上や母上の事、そしてなぜ伊庭道場に預けられたのかを……」
「…………」
「そういえば総司、私が寝込んでいるとき、何か伝える事があると言っていませんでしたか?」
「さぁ? そんなこと言ったかな?」
それ以上、言葉を交わすことが無くなった総司は、鐐の生まれを主張するかのような刀を、熟慮するように見つめていた。
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