ー第一章ー

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 相手を威圧し、抑制するような掛け声と共に竹刀の打込む音、道場を踏み込む音が木霊する。  面具や竹具足を付けた男達が、集中力を高め士気高揚させているのだ。  鐐は道場の中が見える、矢竹が植えられた庭の隅で稽古を見るのが好きだった。  四歳の頃に伊庭家に来た鐐は、自分がこの家の者でないことを理解はしていたが、ここに来た理由や、それ以前のことは何も聞かされてはおらず、それまでの記憶も殆どなかった。  伊庭家には、八代目秀業を筆頭に、妻のマキ、その実子達、養子となった九代目秀俊(ひでとし)とその妻子、それ以外にも、秀業の姉、また秀業の甥にあたる者達、これらが同居し大所帯であった。  物心が付いた頃、マキに「十分な金子(きんす)を貰ったので仕方なしに置いている」と言われて以来、聾桟敷(つんぼさじき)に置かれたような立場の鐐は、幼いながらに遠慮することを覚えた。  そんな預かりの身で負い目を感じる鐐が、唯一気兼ねなく話せるのが秀業の嫡男、八郎だった。  八郎とは道場の庭でよく遊んだ。  洗濯に使われていた木桶の箍(たが)が外れているのを見つけた時は、その大きな輪を棒切れで転がしたり、ぼろぼろになった箒を見つけた時は、その箒の柄で斬り合いの真似事をしたり、同い年ではあったが、鐐はいつも優しく寄り添う八郎を兄上と呼び親しんだ。  マキにはよく、「女子(おなご)がそんな真似をして、はしたない」と叱責されることがあったので、屋敷の隣にある道場の庭で遊ぶのが日常だったのだが、隠れるように八郎と過ごすこの庭は居場所のない鐐の心の拠り所となった。  数年後、八郎は学問所に通い始め、鐐も琴や三味線、舞踊などの手習い所へ通うことになった。  江戸では武家の娘だけではなく、裕福な農家や商家の娘達も躍起になって習い事をする。  良い家柄の、少しでも禄(ろく)の多い家に嫁ぐ為だ。  云わば、お武家様の御眼鏡に適うよう、教養を身に付けるのが一般的なのだが、鐐はそういった類のものはどうにも好きにはなれなかった。  八郎と過ごす時間が減り、芸事の稽古に気乗りしない鐐は度々道場の庭に来ては、剣術稽古をする男達に羨望の眼差しを向け、自分も男に産まれればよかったのに、と独り言ちていた。 「今日は三味線の稽古に行かなかったそうだな、従者が鐐を探しておったぞ」  五年前に家督を九代目に譲り、既に隠居の身となった秀業が同じように道場を眺めながら声をかけてきた。  旗本、御家人たちの華美奢侈(かびしゃし)を排した古風な厳格さを持つ姿は隠居したとはいえ、まだまだ健在だ。 「ごめんなさい……」 「……剣術の稽古に興味があるのか?」 「いえ、私は行儀作法の他、書道、歌道、または芸事を習うのが女子と母上から言われていますので……」 「なに、女子でも北辰一刀流、桶町千葉道場の定吉(さだきち)殿の娘は小太刀が得意と聞く」  咎められる、と身を縮め謝罪する鐐にかけられた言葉は意外なものだった。  予想外の秀業の言葉に期待のこもった本音が漏れる。 「女子でも剣を振ることが出来るのですか!?」 「別式女(べっしきめ)と言ってな、諸藩の奥向きで武芸指南をしている女子もいる。武家の女子はいざという時は、自らの身を守れるようになった方が良いでな」 「私は……」  武家の子なのですか? と言う言葉を飲み込む鐐に秀業が呟いた。 「……明楽茂正(あけらもせい)」 「え?」 「鐐を私に預けた旗本の名前だ。茂正殿もまたある大身のお方から預かったと聞いている。……そこでは、鐐は生まれて直ぐに、夭折したことになっているんだ。夭折したとされている鐐は、生きている事が知られてはいけない存在故にここに来た。鐐が剣術を学ぶ必要があるのは確かだ」  地に足が付いていない感覚に陥った。足元から真っ暗な闇に飲み込まれたようだった。  この話は他言してはいけない、と続けた秀業に虚ろなまま相槌を打つ。  鐐の剣術稽古はこの日を境に始まった。  大身のお方と言われても、本当の父や母を見たことも感じたこともなければ、何の実感も湧かない。  自分は夭折したことになっている。この世に自分の存在はない。誰も存在を認めてはくれないのだ。自分の身は自分で守らなくてはならない。  鐐は秀業から学ぶ剣術に夢中になった。  稽古に打ち込んでいる間は、孤独感を抱かずに済んだから。  五年後。事情が変わり、命が狙われるかもしれない、と身の安全を守る為、暫く町の道場に入るよう言われた時は、剣術の稽古が続けられるのが救いであった。  そうすることでしか、自分が存在して良い理由を見つけられなかったからーー。  宗次郎との稽古は鐐の心の隙間を埋めていった。  秀業との稽古は孤独感を紛らわせることは出来たが、自分の為に秀業が時間を割けば割くほど、申し訳なさや、マキへの後ろめたさが常に付き纏っていた。  しかし宗次郎とは対等でいられたのだ。同じ内弟子として、与えられるだけでなく共に研鑽する存在。  独りではない安心感。鐐は初めて宗次郎に自分の寂しさを漏らしていた。 ーー私は、私の事がよくわからないのです。 「鐐。まだ起きてる?」  父の話しを聞いてきた宗次郎がその夜、部屋の外から声をかけてきた。  月が綺麗だから一緒に見ようと誘ってきたのだ。  鐐は縁台にいる宗次郎の隣に並んだ。  宗次郎は鐐が座ってからは何も話さなくなり、二人の間には只々静かな時間が流れた。  横目で見る宗次郎は「月を一緒に見よう」と言ったはずなのに、しじまを味わうように瞳を閉じ、何かに思いを馳せているようだった。  しばらくして沈黙を破った宗次郎は静かに話し始めた。 「……僕は父上も母上も知らないんだ。二人とも僕の記憶に残らないほど前に亡くなってる。姉上は二人いて、一番上の姉上は結婚して僕を育ててくれた。でも僕が九歳になる頃に赤子が生まれて……。それで僕はここに来たんだ。若先生はそんな僕のことをいつも気にかけてくれた。そんな先生が褒めてくれるから僕は剣術の修行に夢中になったんだ。……君の父上も同じだよ。一心に修行する君のことを気にかけている。そうじゃなきゃ様子を見にこないでしょ」  心配してくれる人がいる。独りではない。そう寄り添う宗次郎の優しさは、渇いた喉が潤うように心を満たしていった。  深緑の闇に昇る天満月(あまみつき)が二人を照らしていた。
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