ー第一章ー

8/10
前へ
/20ページ
次へ
 安政五年(一八五八年)  鐐が試衛館に来て三年、宗次郎は元服して名を総司に改めていた。  十五歳になった鐐は、相変わらず袴姿に後ろで高く結んだ総髪。  飽きもせず医学書を読み漁り、今は骨と骨を繋ぐ関節がどうのこうのと、朝餉を取るに似つかわしくない話しをしている。  丸っきり男と変わりない姿、言動に勝太は「嫁入り前の女子なのだから、たまには着物や髪飾りはどうだろう」と勧めていた。  総司は「嫁入り前」という言葉が気になった。  これまで剣術稽古と医学書にしか興味を示さない鐐が輿入れする。そんなことを微塵にも考えたことがなかったが、十五といえば髷を結わい成人を祝う年頃なのだろう。町娘であれば早々に何処かに嫁いでいく。そもそも鐐はいつまでここにいるのだろうか。これだけ平穏な日々が続けば、本来いるべき場所に戻る日も近いのではないか。  もやもやと考え込む総司は、味噌汁を飲みながら「私には必要ありませんよ」と言う鐐にほっとしていた。  朝餉を終え、道場で総司は鐐と対峙する。 「あんな歩きにくい格好では刀は振れないし、簪や櫛など飾っていては頭が重くて俊敏な動きがとれませんよ。そんなことより、今日こそは総司から一本取るために秘策を考えてきました」  「それは楽しみだね。じゃあ僕も本気でいくよ」  活気溢れる鐐に、物憂い気分がすっかり晴れた総司は、稽古に意識を集中した。  木刀を水平に構え、刃である方を外に向け三段突きの構えをとる。  三段突きとは、突く引く突くの三連動作の事で、突き技を得意とした心形刀流の技を鐐から聞いた後、総司が新たに生み出した技であった。  万が一、突き損じた時に備え三段突く。刃を外に向けるのは、突き技から一転して横払いに斬ることをも想定していたからだった。  総司の三段突きは、一歩目の踏み込みの音が消えないうちに、三本の突きが絶え間なく出され、一本の突きにしか見えない程速かった。  防御の構えをしていた鐐は、総司の意図に気付くと、木刀を左手に持ち直し、腰の位置に添え、重心を低くして構えた。  居合、抜刀術の体勢だ。  両手斬りより届く範囲が伸びる片手での抜刀術なら、間合いが長い分、引き技も速く、更に抜きながら飛び込んで行ったりと、多様な変化技が出せるだろう。  以前までは総司の構え一つで雰囲気に飲まれ、術中に嵌まっていた鐐だったが、成程、秘策を考えてきただけのことはある。一筋縄ではいかなくなってきたようだ。   頭、喉、鳩尾(みぞおち)。狙う急所と切っ先を定めた総司は一呼吸置いた後、頭目掛けて一気に間合いを詰めた。  右半身でかわしながら瞬間に抜きつけ迎撃する鐐。  鐐の攻撃を避けた総司はすぐまた二の太刀、三の太刀を繰り出すが、思っていた以上に素早い鐐の攻防で木刀は鍔迫り合いの形となった。  力で負けることはない総司は、このまま圧して一本取ろうとしたところで、眼下の鐐に対して悪戯心に火がついた。 「晒が外れてるよ」 「えっ!?」  胸に気を取られる鐐。  総司はその頭上に、ぽんっと軽く木刀を打込み、にやりとほくそ笑んだ。 「僕の勝ちだね」  無論、晒など外れておらず、騙し討ちされた事に気付いた鐐は目を丸くしている。 「卑怯者!」 「戦いに卑怯も堂々もないさ。油断大敵ってやつだ。しかし秘策が抜刀術とはね」 「若先生に言われたんですよ。特技を見つけ、その能力を伸ばすようにと。力ではどうしても勝てませんから」  鐐の成長は著しい。  稽古に医学書、常に何かに集中していなければ自分を保てないのであろう。  満月を眺める習慣は今でも続いていて、部屋に夜半(よわ)の月が漏れ輝く日は、どちらからともなく縁台に腰かけ他愛のない話しをした。  鐐が話す書物の内容はよく分からなかったが、身振り手振りで身体の名称や形態を懸命に説明するのは楽しげで、総司は黙って鐐の横顔を眺めていた。  だが時々鐐は不意に話しを終える時があった。  寂しさの含まれた笑顔で夜空の輝きを眺めるのは、決まって鐐の父が来た日であった。  鐐は父から未だ、自分の出生について聞けないでいるようだった。 「そういえばこの前、君の父上を町で見かけたよ。大工の男と一緒だった」 「そうですか。父上は隠居している身ですからね。家処の修繕でも依頼していたのでしょうか」 「ねぇ、伊庭先生ってもう家督を譲ってるんだったよね。まだまだ剣術の腕前は健在なのにどうして隠居したのさ?」 「さぁ、私が引き取られた頃にはもう既に九代目を養子に迎えてたし、もともと伊庭家の心形刀流は実力のある門弟が養子となって流儀を継承することが多いみたいだから、気にしたことなかったなぁ」  そんな話をしていた矢先のこと、鐐の父、秀業の訃報の知らせが届いた。
/20ページ

最初のコメントを投稿しよう!

20人が本棚に入れています
本棚に追加