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「…え?」
強い力で体を引かれ、そのままその胸に収まる。
懐かしいと呼ぶ程遠くない、嗅ぎ慣れた柔軟剤と体の匂いが混ざった香り。私の好きな花の香り。
顔を上げるのが怖かった。そんなはずない、だって、あの人はもういない。
唇が震える。けれど、違っていたら謝れば良い。私は愛する人の名前を呼んだ。
「伊月…?」
いつも通りの柔らかい笑みで私に頷きを返してくれる。その場に崩れ落ちそうになる体を伊月が支えてくれている。声が言葉にもならないで洪水のように溢れた。
伊月は私を宥めるように、無条件に与え続ける。もう二度と映せないと思っていた笑顔を、もう二度と感じられないと思っていた温もりを。
「伊月、伊月、いつき!私、あなたに会いたかった。会いたかったの…」
やっとまともな言葉になって呼吸を整えようとした私の喉はその瞬間。無遠慮な力で掴まれたように窄まった。伊月の笑顔は像を歪め、みるみる違う形になっていく。それは先ほどまで隣にいたはずの母の顔だった。
「お母さん?ねぇ、聞いて!今伊月がいたの!」
叫びは母には届かない。今度は父の、祖父の、祖母の…瞳に写る顔は一定を保てないと言うようにぐるぐる形を変えていく。
「…やめて!何、何よこれ!」
赤いランドセルを背負った背中が遠ざかる。
「…ミヤコ、さん。ミヤコさんなんでしょ?!」
私には関係ないと手離した名前。
やさしいユウレイ。
その人が一番会いたい人の姿に見える、ミヤコさん。
「一番会いたい人に会わせてくれるんでしょう?私が、私が一番会いたいのは…」
けれど言葉を待たずにミヤコさんは再び像を歪めていく。
目の前に鏡は置かれていない。他に誰の姿もない。冷たい汗が背中を伝った。
それは間違いなく、私。江藤路瑠の顔と体。
「なんで…?」
【私】は私に近付いてくる。怖い、逃げたいはずなのに、体はちっとも動かない。
やめて、やめてよ!
私が会いたいのは伊月。もう二度と会えなくて、会いたい人はあの人なのに!
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