あるのにないとされているもの

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あるのにないとされているもの

 2人暮らしはとても順調だった。最初の頃は僕の方が仕事が遅く終わることが多かったので、家事のほとんどは彼が負担してくれていたのは申し訳なかったけれど、社会人3年目くらいになると仕事も落ち着いてきて、僕も家事に参加できるようになってきた。家に置く家具や家電ののチョイスは僕に任せてくれたので、理想の空間が出来上がっていった。  ある金曜日の夜、彼に連絡をしても返信が無く、なかなか家に帰ってこなかった日があった。僕の帰りが遅くなることはよくあったが、彼は友達が多い方ではなかったし、今までそんなことは無かったので何となく心配だった。明け方になっても帰ってこなくて、僕は柄にも無く一睡もできなかった。結局土曜日の朝7時過ぎ彼は帰ってきたのだが、どんなに心配したか、とことん怒ってやろうと夜中に腹に溜めていた小言の数々は、目も当てられないほど泥酔して帰ってきた彼を見て引っ込んでしまった。僕も彼もお酒はほとんど飲めない。彼は上司に連れて行かれたバーでテキーラのショットを無理に何杯も飲まされたあげくロクに介抱もしてもらえなかったらしく、明け方までバーのトイレで寝ていたらしい。とにかくすぐにお風呂に入らせて寝かせてあげた。  この一件があってから、2人には共通の知り合いが1人もいないこと、僕らが一緒に住んでいることは大家さん以外この地球上で誰も知らないこと、もしどちらかが事故に遭ったとしても連絡ももらえないかもしれないこと、家で倒れて入院することになっても病院で関係性を誰にも説明できないこと、家族の連絡先も職場の連絡先も知らないことを改めて思い知らされた。何年も一緒にいて、誰よりも多くの時間を共に過ごして、旅行にも何度も行っているのに、社会的に見たら僕たち2人はどこにも存在していないのと一緒なのだった。それはまるで、十分な広さもあり見た目も他の部屋と遜色ないのに、居室として認めてもらえないサービスルームのようだった。寂しいけど、痛いほどの事実なのだ。僕らはその日のうちに、万が一の時のためお互いの会社の連絡先のわかる名刺と家族の連絡先を交換したのだった。    母親と姉と姪の突然の来訪に、咄嗟にサービスルームに隠れてやり過ごしてもらった日、母親達が帰った後も彼は浮かない顔をしていた。こういう事が起きたのは今回が初めてではなかったし、いい加減、何も悪いことをしていないのにこんな事をさせ続けるのはおかしいと思っていた。彼は優しいから笑って許してくれていたけど、その度に心の細胞が一つ一つ死んでいっているのではないかと心配になった。  だからと言って、僕は彼と付き合っていることを公言するのが現実的だとはまだ考えられなかった。両親や姉に自分がゲイだと伝えて、素直に受け入れてもらえるとは到底思えなかったし、彼らの理想の息子像を壊してしまうのが申し訳なかった。小さい頃から色々な習い事をさせてもらい、大学まで入れてもらった。仕送りもきちんと貰っていたし、大切に育ててくれた事に本当に感謝している。それを全部裏切ってしまうような気がして辛かった。彼らはきっと優しいので表面上は受け入れるふりをしてくれると思うが、心の奥底では拒否されるような気がして、それは100%拒絶される事よりも怖いことのように感じた。想像するだけで手足の指先が冷たくなって、視界が歪んで心が沈んでいくようだった。
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