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引っ越し
「引っ越そう」
次の日に彼からそう言われた時、ああやはりそうなってしまったかと、胸が鉛のように重くなった。やっぱり僕らの同棲生活は、なんの責任も伴わないし、いざという時にお互い何の役にも立てない、ごっこ遊びのようなものでしかないのだった。こんなこといつまでも続けていたって時間が無駄になるだけだということを、彼は誰よりも痛感していたのではないだろうか。サービスルームに隠れてもらう度に、自分は彼にそんな思いをさせていたのかもしれない。この生活が終わりを迎える事、帰っても彼がいない事を想像すると寂しくて仕方なくてどうにかなってしまいそうだったが、僕にはそれを引き止める権利なんてない気がして、彼の決断を受け入れようと思えた。少しでも油断するとみっともなく縋りついてしまいそうだったので努めて冷静に質問をした。
「わかった。どこに引っ越そうとしてるの?」
「幡ヶ谷とか、千歳烏山とかはどうかなって思ってる。あの辺は家賃もそんなに高くないし」
「でもそれだと今の家より職場は遠くならない?」
「それはそうなんだけど、渋谷区か世田谷区かで考えてるから」
「そうなんだ。渋谷と世田谷のあたりが好きなの?なんか意外だね、あんまり華やかそうなところは好きじゃないと思ってた」
「好きとかってわけじゃなくて、同性パートナーシップを認めてる自治体がいいと思ってるからさ」
その答えを聞いて、僕の心臓は大きくドクンと脈打った。想像もしていない答えだったからだ。嫌な予感に寒気がした。
「それは、誰かとパートナーシップの申請を出そうとしてるってこと?」
聞きたくないけれど、聞くしかなかった。
「うん」
そうなのか。もう彼は、僕の向こう側に既に誰か別の人との生活を見ているのかもしれない。こんな、ごっこ遊びにすぎない非現実的な生活ではなく、もっと地に足のついた生活を。きっも止めようとしても止められない。考えてみればニュースでも何度も話題になっていたし、大人として未来を考えて生活していく上で検討ぐらいはしてもおかしくない。僕はそういう真面目な話題から知らず知らずのうちに目を背けていたのかもしれない。彼はいつのまにか何歩も先を歩いていたのだ。
「もしかしてもう相手は決まってるの?」
そんな素振りは一緒に生活していた今までどこにも感じられなかったけれど、仮にそういう相手がいたとしても、今まで何度も傷つけてきた僕が責める権利は無いと思えた。
「うん。何言ってるの?俺とお前だよ」
真っ直ぐにこちらを見る彼の瞳に、不意に吸い込まれそうになった。瞬きが出来ない。鼻の奥が熱くなる。
これから先、この選択をした結果どんな偏見にぶつかってどんなに傷つくことになるかはわからないけれど、少なからずそういう事は確実にあるだろう。身近な人や信頼していた人に拒絶されて、足元が沈み込む心地がすることもあるだろう。それでもこの人の隣にいれば乗り越えていける気がしたし、乗り越えていきたいと思えた。僕は涙が溢れないようにゆっくりと上を向き、彼の厚い掌を強く握りしめた。
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