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「あ、電車来た」
結局コートを取り返せないまま、電車に乗る羽目になった。俺は店を出る時からずっとコート無しの状態なのでとにかく寒かった。電車内は暖房が強めに効いていたのでようやく体を温めることが出来る。普段なら不快だと思う、むわりとした人の熱気も今は助かる。
尾田さんはたまたま空いていた席にすっと座ってしまったので、ますますコートを脱がせることが難しくなってしまった。もう、今日は諦めてこのまま帰った方が早いんじゃないかと思えてきた。帰れば黒のロングコートもあるし、しばらくこのコートが無くても特別困ることはない。けれどもし今日諦めたとして、また約束を付けてコートを返してもらう手間こそ面倒くさい。二人きりで会わなくちゃいけないのも気が引けるからそれは避けたかった。
そういえば、尾田さんってどこに住んでいるんだっけ。俺と同じ方面だったか?
「次はー登戸ー、登戸です」
やばい。もうすぐ最寄に着いてしまう。
「あのさ、尾田さん」
「……なんで藍原君はそんなよそよそしい呼び方するの?大学四年間一緒に過ごしたんだよ?」
「言ってもそんなに絡みなかったでしょ」
「ひどい!他の男の子はみんな茉紀って呼んでくれるのに」
「じゃあ、尾田」
「なんで!」
「いいでしょ苗字だって。とりあえず、俺もう降りるからそろそろコート返してほしいんだけど」
「じゃあ私も降りるー」
「いや、ちょっ、待って」
俺が慌てて阻止しようとしたが、尾田さんは俺を押しのけてあっという間に電車から降りてしまった。これはまずい。めちゃくちゃ面倒くさいことになった。
「ちょっと、尾田さん!」
尾田さんは電車から降りただけでなく、階段を使って改札口へ向かっていく。引き留めようにも人が多く、うまく追い付けない。小柄な尾田さんはするりと交わすように前へ前へと進んでいってしまうので、段々と距離が離れていく。
南武線への乗換駅だから、尾田さんはもしかしたらその路線で帰るだけなのかもしれない。ただ単に酔っ払いが俺をからかっているだけなのかもしれない。
だとしてもコートだけは取り返さなくては。改札を出るとようやく人を交わして前へ進めるようになり、小走りで尾田さんの背中を追いかけた。
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