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「尾田さん!」 「茉紀って呼んでよ、呼ばないならこのコートは返しません」 「……茉紀。返して」 「ふふ、いつもは気だるげな藍原君の困り顔、いいね。かわいい。一度困らせてみたかったの」 「はいはい。ほら、もういいでしょ?」 「やだー」  尾田さんはまるで拗ねた子供のように頬を膨らませ、身をよじらせた。  この時間、小田急線と南武線の乗り換え通路にはまだ人通りが多い。おまけに俺は寒い。いつまでもここで二人きりで話しているわけにはいかなかった。  すると尾田さんは突然下を向き、おもむろに俺の手を取った。その手が少し震えているのは、もしかして、 「吐きそう?」 「え?」 「あれだけ飲んでたら気持ち悪くもなるでしょ、トイレ行く?」 「……違うよ、馬鹿」  今度は涙目で顔を覗き込むように近付いてきた。俺の手を握る力は強まる。解こうと思っても簡単には逃さないと言ったように益々指に力が入った。  なんだ、この感じ。  漂い始める妙な空気に嫌な予感がした。意を決したような顔、揺るがない双眼、強まる指先。ゆっくりと開くその口から何が語られるのか、鈍い俺でも分かってしまった。 「私、藍原君のこと、好きなの」  突拍子もないことを、どうして俺に。  それが率直な感想だった。  ただのサークルの同期で、学生時代に特別仲が良かったわけでもなく、卒業後もたまにしか顔を合わせない。尾田さんとの思い出なんて率直に言ってあまりないし、ましてや二人きりで何かしたことさえない。  何より、サークルのメンバーは入学当初から藤映の存在を知っていた。俺に彼女がいることは公認の事実だったし、尾田さんだって今まで俺に恋愛感情を向けてくるような言動を取ることは一切なかったはずだ。  つまり、これはただの酔っ払いの戯言でしかない。本気にする方が恥ずかしい。  そう、思いたかった。 「酔い、醒めてないの?」 「冗談で言ったわけじゃないよ」  その真剣な眼差しに、俺は咄嗟に手を振りほどいた。  上目遣いや潤んだ瞳、か弱そうな細い指やほのかに香るリリーの匂い。きっと他の男なら思わず手を伸ばし受け入れてしまうんだろう。包み込んで、甘やかな言葉と雰囲気に溺れてしまうんだろう。  けれど、 「ごめん。俺は彼女しか好きじゃないから応えられない」  藤映以外を好きになることはない。覚悟を決めた俺は、揺れることはない。  なるべく傷つけないようにやんわりと断れるほど俺は優しくない。応えられない限り、中途半端なことはしたくない。何より、俺が絶対に傷つけたくない相手は藤映なのだから。
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