3人が本棚に入れています
本棚に追加
孫か。結婚して家庭を持ってからここまで随分と早かった。
俺はそっと藤映の手を握った。相変わらず細く長い指だ。けれど美意識を今でも失わない藤映だって皮膚に皺やシミが多く目立つ。俺もすっかり白髪になってしまって、老眼も進む一方だ。時は止まってくれないし、老いは防ぎようがない。
「もう年なんだなあ」
「ふふ、どうしたのよ。私はいつまでも女らしさを失いたくない。年だなんて思いたくないわ」
「藤映は相変わらずだな」
あと一年で俺と藤映は金婚式を迎える。五十年だ。五十年もの長い間、人生を共に歩んできた。その道は決して幸せばかりではなかった。新婚旅行の直後、藤映は運転中に他の車に突っ込まれて怪我をし、しばらくリハビリに励む辛い日々を送った。精神的に弱っていた藤映のことを、仕事を理由にあまり構ってやれなかったことで一時は喧嘩ばかりしていた。草一は生まれつき体が弱く、よく病気にかかっては俺と藤映は血相を変えて病院に駆け込んだ。菫が学費の高い大学しか受からなかった時、家計はかなり逼迫し、けれど本人に悟られないよう必死にやりくりをした。他にも小さい出来事を含めれば数えきれないくらいの苦悩を経験した。
けれど、それ以上に幸せなことの多い人生だった。草一と菫という子宝に恵まれ、自分より大切な存在が出来た。二人の成長を傍で見られ、今では孫だっている。子供が巣立ってからは藤映と二人、ゆっくりと穏やかな日常を送ることが出来ている。年老いて出来なくなることが日々増えていく一方で、長年連れ添った俺たちだからこそ過ごせる時間がある。
後悔が何一つ無い訳ではないけれど、ここまでこうして過ごせて来られて良かったと思えることが幸せなんじゃないか。
「藤映。俺は幸せだな」
「さっきからしみじみとしちゃってどうしたのよ、松一郎さん」
「子宝に恵まれて、こうして藤映と穏やかに暮らせてる」
「子宝に恵まれたのは、私とあなただからよ。藤と松は、やっぱり一緒に居なくちゃ」
「そうだな。藤映には感謝してるよ」
「改まっちゃって、何だか照れるわ」
藤映が嬉しそうに目を細めた。
東の空から昇ってきた太陽は、段々とギラギラとしたものに変わっていく。ぬるい風が吹くようになってきたので、俺たちはここで引き返して家へ帰ることにした。
八月も残り僅かだ。
最初のコメントを投稿しよう!